本百科事典は、2005年に米国マクミラン社から出版されたEncyclopedia of Science, Technology, and Ethicsの全訳である。原著の編集代表者は技術哲学を専門とするカール・ミッチャム教授。ペンシルベニア州立大学の科学技術社会(STS)プログラムの主任を務める研究者である。氏による冒頭の序論には、本事典作成の起源と過程が簡単に記されている。もともとSTSの百科事典を企画しようとしたのだが実現せず、枠組を変えて本事典になったとのこと。同氏の広い問題関心を反映するかのように、本事典のカバーする範囲は非常に広く、STSと呼ばれる領域の多くを含むとともに、純粋な哲学・科学史・技術史に関わるトピックも取り扱われている。
ミッチャム氏を補佐するサブエディターとして選ばれたのは、まずは情報倫理を専攻するデボラ・ジョンソン氏、そして1995年に創刊された『科学技術倫理』誌の編集を務めるステファニー・バードとレイモンド・スパイアーの両氏。さらに政治学者のラリー・アマート氏が彼らに参加した。彼らは2003年1月に2日間のワークショップを開き、百科事典のフレームワークを作成。さらに同年の春から夏にかけて二十数名の専門識者が集められ編集諮問会議を開催、同年8月からは早速確定された項目の執筆依頼が開始された。コアメンバーのバックグラウンドとスピーディーな編集プロセスが、百科事典の項目選定と基本的性格を語ってくれているように思われる。
選定された数百にのぼる項目は、百科事典の冒頭の「トピカル・アウトライン」というページに、いくつかのカテゴリーごとにまとめられている。そのようなカテゴリーとして、分野全体を俯瞰するような8編の「序論的エッセー」、各領域の倫理学(技術倫理、生命倫理など)を概観する33編の「イントロダクション」、大きな重要テーマ(科学、技術、研究倫理など)をとりあげる13編の「概観」があり、それに続き一般項目がいくつかのカテゴリーとテーマに分けられリストされる。キーコンセプト、ケーススタディ、社会問題、人物と組織、哲学・宗教といったテーマなどに加えて、本事典の一つの特徴として各国・各地域からの観点が含められている。
概観解説の項目のうち、「科学」を取り上げてその内容を紹介しておこう。編集責任者ミッチャム氏らによって書かれたこの記事では、科学の3つの側面―知識・認知・社会―において浮かび上がる倫理的問題をとりあげる。その一つとして科学と宗教の関係が説明される。ガリレオの宗教裁判とともに今世紀アメリカで起こったスコープス裁判が触れられた後、40年にわたり科学と宗教の関係について考察を深めてきたイアン・バーバーが紹介される。天文学、進化生物学、遺伝学などの分野における科学者と神学者との間の議論を分析し、両者間には対立・独立・対話・総合という4つの関係のあり方が考えられると彼は論じる。そして「非重複教導権」という概念を提唱し両者に相対的独立性を保とうとする進化論学者スティーブン・グールドに対し、バーバーは対話や総合の側面を強調するとする。このように科学と宗教という大きなテーマについて、歴史上の、また現在の論点や争点が簡潔に紹介されている。各論者の根拠にまで遡って詳述されることはないが、論点や立場の差が要領よく整理され、次にあたるべき文献を示してくれることが本事典の大きな利点だろう。
もう一つ、技術のトピックの一例として飛行機を取り上げよう。20世紀に登場し身近な存在となった飛行機にはいかなる倫理的問題が含まれているのだろう。「飛行機」の項目ではまず、簡単な歴史が述べられた後、大型化と安全性の問題、保守管理や安全基準遵守の監督と規制の問題、飛行機がもたらす環境汚染や騒音の問題、これらのトピックをめぐる倫理的社会的問題が簡単に紹介されている。関連する「航空監督官庁」の項目では、航空産業を取り巻く経営事情にも触れ、規制緩和により航空会社が大きな競争にさらされ安価な航空便が実現される一方、コスト削減への圧力下で安全性を確保せねばならぬこと、各企業の安全性確保を関係官庁が監督をせねばならぬことが指摘される。そしてこれからはそのような監督官庁のあり方や安全性に関する方針について一般利用者がより強い関心をもっていくべきだと提唱する。
本事典のカバーする項目は多種多様であり、一見科学技術倫理とは無関係に思えるような項目にも重要な倫理的問題が潜んでいることを改めて教えてくれる。当該分野の専門家の目から眺めた重要な論点が要領よく過不足なく紹介されているという印象である。各項目にはかなりの数の参考文献があげられ、その多くに簡単な紹介が添えられている。また本事典は電子化され、Gale Virtual Reference Libraryという数十点の専門事典、百科事典の一つに含まれており、電子版を使うことができれば横断的な検索も可能である。