内容
75年前、日米激戦のさなか、フィリピンの前線の洞窟で日本語の新聞が作り続けられていた。死と隣り合わせの兵士たちがむさぼるように読んだ「神州毎日」。その時、新聞は何を伝え、何を伝えなかったのか。自らも新聞記者となったその子孫が、その足跡をたどる旅に出る――《内容》著者は支局勤務を経て、現在東京本社で紙面製作に携わる。ふとしたきっかけから、自分の曾祖父の弟が毎日新聞の記者をし、中国とフィリピンへ記者として2度も従軍していたことを知る。東京日日新聞(現毎日新聞)の記者、伊藤清六(1907~1945)だ。岩手の農村出身だった清六は苦学して、東京日日新聞に入社。30歳の時に日中戦争の従軍記者に選ばれる。そして軍に同行し、上海へ。当時新聞社は多くの記者を戦地へ送り込んでいた。戦争へ赴く家族の情報を得るため、新聞の発行部数も飛躍的にのびる。上海、そして南京。軍と一体化した清六は、戦果を日本へと伝え続けた。一方、戦局が緊迫の度合いを高めていくこの頃、新聞社も情報確保に必死だった。東京日日は社内に検閲課を設置。海外については、大本営発表以外の情報を入手するのが難しくなっていく。そんな中、密かに本社のトイレで海外の短波放送を傍受し、情報を得ることもあった。南京陥落後、清六はフィリピンへ。しかし米国による空襲は激化、現地の記者たちは小型印刷機を抱え、マニラを脱出。郊外に展開していた兵士約1万人の陣地に。そこで、わら半紙にガリ版刷りの新聞製作を続けた。350部の「神州毎日」は3カ月の間に100号以上発行され、兵士たちは競って読んだ。その後、米軍の総攻撃により日本軍は敗走。清六らは、ジャングルの中をさまよう。結局「神州毎日」の記者はひとりも生還できなかった。唯一生き延びた読売新聞の記者によると餓死だったという。戦時中、戦意高揚のためにその一翼を担った新聞。あれから75年が経った今、メディアは変わったのだろうか? 記者たちは何を伝え、何を伝えなかったのか。そして何を伝えるべきなのか。自らも日々ニュースに接する今、歴史をもう一度振り返り、現在地を見つめなおすドキュメント。