内容
眠れぬ夜に「ゴルトベルク変奏曲」。謎をはらんだ「フーガの技法」。最高傑作「マタイ受難曲」……。平易と優美の時代に抗い、生と死の問題を見つめ続けた最後の音楽職人J・S・バッハ。人間を超え、神に向けられた彼の視線は、音楽をも「超える」。豊富な資料と自筆譜に加え、名盤・名曲案内まで備えた決定版バッハ入門。
人間を超えたものへ――バッハは、相手によってランクを落とすという意識の、まったくない人であった……。これは一般の愛好家を意識してサービスにつとめる同時代のテレマンの態度と、好対照をなしている。要するにバッハは、音楽を、人間同士が同一平面で行うコミュニケーションとは考えていなかったのだと思う。バッハの音楽においては神が究極の聴き手であり、バッハの職人としての良心は、神に向けられていた……。神が聴き手だということになれば、音楽は人間の耳を超えることができる。人間の耳にはとらえられぬ隠れた意味を書き込んで、それを信仰のあかしとすることもできる。それが次章で扱う「象徴」の問題である。バッハはこれによって、人間を軽視したのではなく、おそらく人間の完成を志した。人間を超えたものとの関係においてしか人間は完成しえないことを、バッハは知っていたにちがいない。――本書より