第4回 | (1) |
貿易為替取引のためにロンドンやニューヨークなどの国際金融センターに支店を設置するだけでなく、ひろく海外に支店網を展開していた横浜正金銀行は、海外金融市場では、日本に関する情報の重要な発信源でした。日本から見ても、正金銀行を経由して伝えられる海外情報が重要な意味を持っていたことはいうまでもありません。
そうした情報の窓口としての役割が1920年代の国内金融不安のなかでクローズアップされます。国際的な貿易取引に関わり、各地で多額の為替取組を試み、資金を調達していた鈴木商店の信用状態について不安が生じたからです。こうした状況について正金銀行は、火消し役にまわることになります。
1922年2月に石井定七商店の投機取引の破綻が明らかになったころ、国内では台湾銀行が鈴木商店に「救済的貸出」を行うとの観測があったようです。それは鈴木商店が「石井事件ニ関係アルカ如キ風評」のため関係会社手形の資金化ができないなど金融が逼迫したからだと説明されています。そのため、正金銀行は「同店ニ対シ台銀ノ関係モアレバ当行トシテハ此際急激ニ取扱方法変更出来ザルヲ以テ従来輸着スベキ商品ヲ完全ニ保有スル方法ヲ講シ度折角考慮中ナリ」と頭取自ら記しています。
また、1922年4月12日に正金銀行は、内外各店に対して、次のように警告しました。
文第一四八号 大正十一年四月十二日
横浜正金銀行頭取席内国課より内地各店宛書信別紙
鈴木商店ハ従来巨額手形割引ニヨリ資金調逹スルヲ原則トセル処一般金融硬塞、石井事件ノ為メ総テノ銀行警戒劇敷為メ同店金融行詰リ終ニ台湾銀行ニ於テ巨額融通ノ上小康ヲ得ツツアリ本行ニ於テハ充分注意ヲ加ヘツツ普通為替取引及限度内ノ信用取引ハ差当リ従来通取計フ積リナリ、仍テ多少ナリトモ平常ト変リタルコトハ当方ヘ照会セス取引スル勿レ。
この書信は、横浜正金銀行史料のなかでも最重要資料とされている『頭取席要録』にも再録されていますから、当時から重要な情報として扱われていたことが分かります。各店に周知されていたのです。
その後、台湾銀行経由の資金が鈴木商店の経営再建に投じられることになったにもかかわらず、6月になると鈴木商店の経営状態について「風説が新聞紙上にも喧伝され」、正金銀行はその対応に追われることになりました。6月10日の頭取席から各店に宛てた電報は次のように沈静化に努めています。
本電極秘 頭取席発電 海外各店宛 大正十一年六月十日東京発
鈴木商店世間兎角ノ評判有之候得共其後異状無之、当行輸入手形大体期日入金相成居候、台湾銀行援助変リナク同行関係人物鈴木商店監督ニ従事専ラ内部整理進行中ト認メラルニ付キ甚シキ外部圧迫無之限リ難関切抜得ヘシト思ハル、当行方針四月十二日発電信ノ通リト承知可被成(六月十日頭取席発各店宛)
しかし、6月末には、倫敦支店から鈴木商店に関する問い合わせが再び届きます。それは、「鈴木商店支配人来店右風説ニ関シテ当行其他Oriental Bankニ問合サレ度旨得意先ニ申置タルニ付可然回答相成度旨依賴」があったというものです。つまり、鈴木商店の支配人が正金銀行倫敦支店に対して、「風聞」が虚報であることをロンドン市場の取引先に明確に説明するよう求めてきたという報告でした。
同じ日に倫敦支店津山英吉からは、さらに「紐育並ビニ当地ニ於ケル鈴木商店信用ニ関スル風説盛ンニシテ此模様ニテハ同店ガ海外ニ於テ金融ヲ得ル事ハ絶対出来ザル事トナル」との心配があるため、「此際一歩ヲ進メ単ニ台湾銀行ノ取調ノミニ放任セズシテ当行自ラ同店現状ヲ調査シテ確タル報道ヲ各店ニ与フル事トシテハ如何」と、立ち入って調査すべきだとの意見具申もありました。海外支店からは本店の対応は生ぬるいと映っていたのかもしれません。
この倫敦支店津山の意見に対しては、「台銀ハ日銀ノ了解ヲ得テ鈴木商店ニ対シ不動産担保救済資金貸出シツヽアリ、目下台銀全体関係高一億五千万円、当行ハ従来方針通リ筋道ノ判然スル取引ノミ引受、直接救済ニ関係セズ」と回答しています。その趣旨は、調査に入ることで、台銀による鈴木商店救済策に捲き込まれたくないということでしょうか。
その後、7月12日には鈴木商店の依頼に関する倫敦支店から問い合わせに対して、次のような指示が出されました。すなわち、「問合セアラバ左ノ通リ先方責任者ヘ口頭説明差支無シ」というものです。その内容は次のようなものです。
鈴木商店ノ取引ハ廣汎ナルヲ以テ常ニ本邦市場ニ多額ノ手形割引ヲナシツヽアリシガ本年春石井事件ノ為メ財界動搖各銀行一般得意先ニ対シ極度ノ警戒ヲナセル為メ同店手形割引円滑ヲ缺キ金融困難ヲ来シタルハ事実ナリ、其後ニ至リ同社信用ニ関スル記事新聞ニ顕ハレタル為メ財界ノ注意スル処トナレリ、右ハ真偽不明ナレドモ幾分政治的関係ニテ財界撹乱ヲ計ルモノアリシ為メナリトノ風説ナリ。而レドモ吾人ハ同店ガ別ニ損失ヲ為シタルコトヲ聞カザルノミナラズ、同店金融最早常態ニ復シタリトノ報道アリ、本行ハ同商店ニ対スル信用取引ニ関シ何等態度ヲ変更セザリシノミナラズ今後モ同様ノ筈ナリ。
さらにこの電報では、念を入れて「参考マデニ申ス、当行ハ鈴木商店貴地支配人ノ要求スル如キ徹底的証言ヲ与ヘ得サルモ同店ノ信用失墜ヨリ起ル直接間接ノ悪影響ヲ防止スル必要上本行ノ外間ニ対シ責任ヲ負ハザル程度ニ於テ援護致度趣旨ニ外ナラズ、紐育支店ヘ転電セヨ」と指示しています。つまり、海外の金融機関等に対しては、事態は「小康を得」て問題はないことを周知すること、それによって海外発の日本金融市場の大波乱が起こることを防止することにあったと考えられます。ただし、言質をとられないように、口頭での説明にとどめることも指示しています。情報発信の窓口であり、海外市場で信用度が高い正金銀行としては、鈴木商店の海外での資金調達が困難になれば、その破綻に結びつき、日本経済全体への悪影響が大きいと考えてのことだと思います。しかし、同時に正金銀行自身は、まだ曖昧な判断の下、債権回収へと方針を転じることに逡巡していました。
同じ頃の資料で、1922年7月の神戸支店大塚伸二郎支配人より内国課前田次長宛書信では、「対鈴木商店ノ問題ハ整理ハシ度シ、出来得レバ従来通リノ取引関係ヲ継続シ度シトノ「デイレンマ」ニカヽリ、頗ル「デリケート」ノ問題ニ候」と述べ、「現在鈴木ノ状態ニ鑑ミルニ、当分現状維持ヨリ外無之カル可キモ亦何トカ名案無キヤトハ日々其衝ニ当リ居ル吾々ノ均シク感スル所」としています。また、別の書信では、「今後鈴木商店ニ対スル当店営業方針ハ現状以上深入リスルコトヲ避ケ、即チ現在ノ担保ニテ現在許シ居ルfacilityヲ与ヘ従来通リ輸出入ヲ為サシメ機会アル毎ニ傍系会社ノ株券若シクハ関係会社ノ株券或ハ手形等担保ニ採リ居ルモノヲ確実ナル商品、場合ニヨリテハ不動産ト差シ換フル様勉ムルノ外途無カル可キカト被存候」としています。
神戸支店「鈴木商店ガ根底ニ於テ危シ、此際出来得ル丈ケノモノヲ取レト云フ最高幹部ノ方針ナレバ別問題」ではあるが、そうでなければ上記の方針以外にはなく、それが「本行永年ノ取引先否ナ一大常得意先ニ対スル義務」と考え、「此際注意スベキ点ハ当行ガ台銀其他ニ代リ所謂肩代リトナル可キ取引ヲ絶対ニ避クルコト」、また、「鈴木商店関係ノ取引ヲ除ケバ当店[神戸支店]輸出入取引ハ現在額ヨリ半額以下ニ落ツ可シ、此大得意ヲ失フヤ否ヤハ当店ノ重大ナル問題」であるとの考えを開陳しています。
本店が、鈴木商店との取引関係に配慮して結論を先延ばしにしていることを逆手にとったような発言ともとれます。これに対して、頭取席内国課は、8月22日に「担保ノ整理、取引限度ノ改定ハ其必要ヲ認メ居候得共今日ハ尚時機ニ無之様思考致候ニ付テハ暫クハ当行内部ニ於ケル手心ニ止メ置キ、表向キ鈴木商店トノ交渉ハ見合セ置度」と神戸支店の考え方を受け入れていました。
しかし、1922年9月にはいって大連支店で再び問題が発覚し、正金銀行としても方針の転換を迫られていきます。鈴木商店大連支店が300万円の「担保切れ」を起こしていたのです。しかも、それは正金大連支店が自家保管の担保検査なども試みていたにもかかわらず、鈴木商店ではこれを妨害し、実態を隠蔽しようとしていました。しかも、その担保切れの原因となったのは、1920年に日本商業が綿糸取引で生んだ損失170万円を本店の資金繰りの都合上立て替えたものが返済されずにいたこと、1921年5月に台湾銀行が大連に営業拠点を設けた際に「多額ノ遊金ヲ抱キ放資ノ道ニ苦シメルニ乗シ約貳百万円ヲ借リ出シ」たこと、この200万円の資金の返済を台湾銀行から迫られたことから、結果的に正金銀行から無担保借入が増大したことでした。形式的には貿易為替取引として正金銀行が求めた条件を装っていたが担保となるべき商品がいわゆる「無理金融」によって、処分されていました。鈴木商店が本店の指示の下で支店から資金を吸い上げ本店の資金繰りに投入していました。間接的には鈴木商店・台湾銀行関係の不透明な資金繰りに巻き込まれていました。
1923年2月に行われた神戸支店検査でも同様の問題が発覚します。すなわち、頭取席の指示で神戸支店の荷物を調べたところ、既に到着した荷物が正金側には無断で買い主に引き渡されている疑いがあり、そのため荷物の引渡後の受取代金によって行われるべき決済が遅延しているものあるとの指摘が検査役によって報告されたのです。さすがに、検査報告には正金幹部も激怒したようで、その写しには「兒玉頭取記入」として「此レハ鈴木ニ対シ厳重戒告スベキ事柄ニシテナマ温ルキ小言位ニテハ駄目ナリ神戸支店ヲシテ厳格ナル態度ヲ採ラシメ度」と書き込みがあったと記録されています。
検査役報告では、このような状態が生じた原因の一端に正金銀行側の姿勢があることを「荷物監督ニ関スル本行態度寛大ナリシ結果ニ外ナラズ」と指摘し、「此際同店ニ対シ厳重ナル戒告ヲ加ヘ且ツ今後ノ荷物保管貸渡等ニ関シ厳格ナル態度ヲ採ラレ候様致度」としていました。監視を強めなければ、輸入貨物を流用して資金を入手し、その荷物に対して取り組まれた為替手形の決済については先延ばしにするという欺瞞的な行為を防止できないと判断するほどになっていたのです。
神戸支店の検査役報告は、鈴木商店との取引改善について次のような意見を具申していました。
即チ当店ノ営業ハ恰モ鈴木ノ一挙一動ニヨリ左右セラルルガ如キ観無キニアラザルナリ
然ルニ従来鈴木商店ノ内情及資産負債ノ状態ハ外間ニテ容易ニ知ルコトノ出来ヌ処デアツタ。随ツテ本行ト鈴木トノ取引額ヲ如何ナル程度ニ定ムルヤニ付テ根拠トスベキ尺度標準タルベキモノモ無ク啻鈴木ノ独裁者タル金子ノ精悍ナル腕ト度胸トニ信賴シ今日ノ如ク本行全体ニテ常ニ五千万円内外ノ残髙ヲ有スル多額ノ取引ヲ為シツヽアル次第デアルガ斯ル取引振リノ甚ダ面白カラザルコトハ今更言フ迄モ無キコトデアル
鈴木商店ハ実際金子ノ鈴木商店ニシテ金子ノ後ニ金子出デザレバ鈴木ノ生命モ大ニ案ゼラルヽコトハ一般ノ定評ナルガ如シ、随ツテ本行ノ立場トシテ金子ノ後ニ金子無クトモ鈴木トノ取引関係ヲ将来ニ持続シ行カントスルニハ金子ノ独裁主義ヲ撤廃セシメ適当ナル主腦部ノ改造ヲ促ス様巧ミニ話ヲ金子ニ持チ掛クルコトノ極メテ切実ナル処置ニアラザルヤト深ク信ズル次第ナリ
すなわち、金子の才覚を頼りに5000万円もの残高をもつ取引を継続することは「甚ダ面白カラザルコト」との認識を示した上で、金子を中心とした「独裁主義」を改めるような経営改革を求めるべきだとの意見です。これは検査役の独走というわけではなく、「聞ク処ニヨレバ金子氏モ其ノ邊ノ点ニ着眼シ近ク内部ノ改造ニ着手スルコトニ決定セリ」との情報を得てのことのようです。鈴木商店は、経営組織の根本的な改革に迫られていましたが、それは台湾銀行によって主導されたものでした。この点は、『台湾銀行史』などですでにふれられているところです。
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