日本経済史・経営史:研究者のひろば コラム

鈴木商店と横浜正金銀行

第5回 震災前後

武田晴人

第5回(1)

合名会社鈴木商店と株式会社鈴木商店の分立

 台湾銀行の提案もあって、1923年3月鈴木商店は、合名会社鈴木商店(後に鈴木合名会社)と株式会社鈴木商店とに分離されることになりました。この改組の前後に正金銀行は、鈴木商店の財務内容についての情報を得たようで、3月13日の頭取席発電によって「株式会社鈴木商店貸借対照表」の概要が行内に周知されました。その電報と、そのもとになった「株式会社鈴木商店試算表」と題する資料が残っています。

表1 株式会社鈴木商店試算表

 この表1は、1922年末の試算表となっていますが、厳密にはこの時点では株式会社鈴木商店は法人として存在していませんから、やや奇妙なものです。おそらく会社分離の準備のために作成されたものを正金銀行が入手したのだと思います。この内容を頭取席が各支店に電報で知らせた数値(同表右欄、以下「通知」)と対比すると、資本金について払込額で計上したほか、細かな計数の差があることを別にすると、支払手形が試算表では3522万円に対して電報での「通知」では6261万円となっています。この差は、鈴木商店が試算表では「未達為替勘定」と「未達為替対照勘定」と両建てし、為替関係の未回収金があるかのように装っている金額について、正金銀行の「通知」では無担保の単名手形貸出と同様の債務と見做し、形式的にはそれらの手形債権は担保商品として鈴木商店が保有しているはずの資産として、資産側では商品勘定に合算して示したものと考えられます。

 正金銀行の認識としては、為替取り組みなどで銀行から信用を受けているかなりの金額が実質的には鈴木商店の単名手形による資金借り入れと同様のものと捉えられたことを示唆しています。この時点での株式会社鈴木商店は、自己資本5000万円に対して外部負債1億2567万円という借入金依存度の高い経営状態になっていたことがわかります。

関東大震災の被害

 1923年9月1日の関東大震災による被災は、鈴木商店の経営に大きな影響を与えたことはこれまでも言及されています。正金銀行資料では、1923年10月11日の正金銀行取締役会に「関西ニ本店ヲ有スル得意先ノ震災損害見積リ」が次のように報告されています。

◎関西ニ本店ヲ有スル得意先ノ震災損害見積リ

 (出処。取締役会重要事項報告録、大正十二年十月十一日)

一、本行得意先中此度ノ事変ニ際シ損害ヲ受ケタルモノノ中関西地方ニ本店ヲ有スル得意先ノ損害見積高報告ノ件

損害見積額

日本綿花  四―五、〇〇〇千円

東洋綿花    二、五〇〇

江商      七~八〇〇

岩井      二、〇〇〇      外ニ二―三、〇〇〇千円?

伊藤忠       一七〇

大同貿易      一三〇

安宅        五〇〇

鈴木商店   一〇、〇〇〇千円?

兼松     関東方面ノ受取手形四、二四六千円ト関東方面ニ在リタル商品、得意先勘定等

       一、一五〇千円ノ運命ニ在リテ決セラル、假リニ此等全部ヲ損失トスルモ資産

ニテCoverシ得ル見込、先ヅ二、〇〇〇千円位ナランカ

山本商店    七―八〇千円

 鈴木商店の損害が際立っていますが、破綻時の債務額3億円から考えると、震災の直接的な損害1000万円はそれほど大きな金額ではありませんでした。その意味では大震災による救済に便乗して鈴木商店が多額の固定貸しを震災手形として処理したといわれる事情を精査する必要があります。1924年3月末までに台湾銀行が日本銀行の承認を受けた震災手形の総額1.15五億円です。そのうち鈴木合名5483万円、鈴木商店1287万円、鈴木関係会社支払手形1086万円の合計7856万円でした。これと対比すると、正金銀行内で報告されている鈴木商店の震災関係損害額の8倍近い金額が震災手形として承認をうけていたのです。日本銀行への再割引に持ち込んだのは台湾銀行であることを考えると、台湾銀行における震災手形の膨大さは、この救済に便乗した台湾銀行が自らの抱える固定貸を震災手形に転換したものと捉える方が適切と思います。もちろん、このような台湾銀行の対処方針が鈴木商店と無関係というわけではありません。

「桑原々々」

 震災直後における正金銀行神戸支店の鈴木商店取引尻は、輸入引受手形1483万円、輸出手形354万円、割引手形922万円でしたが、9月18日に神戸出張中の内国課次長は次のようなメモを残しています。

 すなわち、鈴木商店は、第1に「各銀行新規融通差止メ、旧債権取立ノ為メ息モツケヌ苦境ニ在」ること、第2に「神戸支店輸入手形本月三日以後全然支払ハズ、延期ニ関スル具体案モ提出セズ、金繰予算表モ未ダ差出サズ、新規大口信用状ノ申込ナク又担保ナキヲ以テ荷物ノ貸渡モ出来ズ全然行詰マリノ状態ニ在リ」という現状にありました。また、正金銀行から担保不足の指摘に応じないで放置する鈴木商店の態度について、「要スルニ金子ハ此際正金ガ非常手段ヲ採ルコトナキヲ逹観シ期日手形ニ対シ多大ノ注意ヲ払ハズ、事実上「モラトリアム」恩典享受ノ観アリ」と、内国課次長は観測していたのです。

 そのため、内国課次長のメモには、「鈴木ニ対シ此際融通ヲ敢テスル馬鹿ハナカルベシ(傍系銀行ハ兎モ角)、故ニ結局正金ト台銀ガ肩代リスルコトヽナラン、故ニ手形延期ニ関シテハ台銀ト同一歩調ヲ採ルコトニ致度、然ラサレバ台銀ノ分迄モ押付ラルヽ危険アリ」と警告し、慎重に対処し「日銀、正金、台銀間ノ大問題トシ対鈴木根本策樹立ノ必要」がある、「冷靜ヲ要ス 桑原々々」と結んでいます。

 しかし、鈴木商店は「流用」による不正な資金繰りを繰り返し続けたようです。その背景には、震災後の復興需要に乗じて思惑輸入が活発化し、鈴木商店もその取引に深く関与していたためでした。日本銀行の調査は、「台湾銀行ニ於テモ鈴木商店其他内地ノ取引先ニ対シ此思惑輸入資金ヲ相当多額ニ融通シタルモノ」と指摘しています。この取引が為替相場の崩落などで決済に支障を来たし、台湾銀行の不良貸増加の要因になったというわけです。震災そのものの被害以上に、その後の対処の仕方に問題があり、正金銀行の本店は鈴木商店の金子に対する信頼に疑念を抱くようになっていたことも分かります。

海外ではボロを出さないように

 鈴木商店への警戒を強めながらも、他方で海外への情報発信の窓口としての正金銀行は、海外市場の危惧を払拭するように引き続き努めています。

 震災直後にロンドンからBankers信用状で濠洲から輸入された小麦取引に関する問題が生じたのですが、この件の処理に関連して「内地関係ハ兎ニ角、外国関係ニ於テ襤褸ヲ出スコトハ取リモ直サズ仝店ノ破滅ニシテ容易ナラザル義ニ有之候処、サレバトテ本行ノ危険ヲ度外視シテ之ヲ救済スルコトハ出来難キ次第ナルモ、此際ノ事ナレバ平時ノ如ク堅実一偏ヲ確守スル訳ニモ参ラズ候間臨機ノ措置トシテ或程度ノ便宜ヲ考慮シ仝店ヲシテ海外ニ於ケル信用ヲ破壊セサル様御配意相成度」と本店は、神戸支店に訓示しています。

 こうした認識の下で、正金銀行は1923年12月23日に鈴木商店との間で、それまでに累積していた固定貸の返済についての約定を結び、本格的な債権回収に入ることになったのです。具体的には、大連など支店で発生していた固定貸しなども含めて神戸支店にまとめ、鈴木商店の単名手形(整理手形)とし、毎月30万円以上を償還するというものであり、整理手形の総額は正金銀行単独分だけで1557万円であった。

 

第5回(1)