日本経済史・経営史:研究者のひろば コラム

鈴木商店と横浜正金銀行

第7回 二ヵ年内ニハ全部決済サルルナラン

武田晴人

第7回(1)

整理回収期の鈴木商店

 震災後の固定貸整理回収の見通しについて、1926年2月に横浜正金銀行監査役会に提出された書類によると、漸く約定通りの返済が進むようになったこともあって、「今後同社ノ状態ニ大異変ナクバ二ヵ年内ニハ全部決済サルルナラン、尤モ右割引手形勘定ノ外常ニ荷物貸渡及為替前貸ノ信用取引アルモ格別憂慮スルニハ不及ト思フ」と予測されています。1928年はじめには整理が完了すると予測しています。

 その一方で、鈴木商店と横浜正金銀行は、貿易関係の為替取引が信用限度設定を遵守するかたちで継続していました。金融恐慌が発生するまで、1924年から26年末にかけて担保付き為替貸出額は6000万円から4000万円前後へと縮小しており、貿易商としての鈴木商店の退潮傾向をうかがうこともできますが、正金銀行が厳格な取引方針を採ったことが結果的にはこのような縮小をもたらしたと推測してもよいと思います。

 とはいっても、貿易商としての鈴木商店の地位は、依然として極めて高かったことも事実です。横浜正金銀行の主要な「大得意先」について報告されている「総取引高」のうち、信用取引額は少ないのですが、担保付きの取引では鈴木商店は三井物産などに匹敵する規模を保っていました。

 1926年1月~6月にかけての半期に限られますが、正金銀行内で報告されている鈴木商店の総取引額は2億3266万円で、主要な取扱品は小麦及麦粉5475万円、砂糖4660万円、金物鋳材機械3332万円などです。正金銀行が信用状を発行している金額はその1割程度でしたが、それが砂糖の取引に集中していることに特徴があります。年間ベースに直した取引総額が5億円ほどと推測すると、この時期の三井物産の「社外販売決済額」が10~11億円と対比すると半分弱くらいですが、かなりの取引規模をもつ貿易業務を鈴木商店は展開していたと考えられます。

表1 鈴木商店総取扱高と正金銀行

 問題は、鈴木商店の取引振りですが、依然として投機的な思惑取引に関わっていたようで、監査役会に報告されたところでは、1926年上期の損失が発生した理由として、「此損失ノ主因ハ小麦ノ先弱ヲ見越シ買附手控中其思惑失敗ニ帰シ結局拾七万頓ノ約定品ニ対シ四拾六万円ノ損失ヲ生ジ」とされています。この投機的な取引態度による小麦取引の損失について、正金銀行は、「鈴木商店ガ営業ヲ総テ『コンミッションベーンズ』トナスト同時ニ逐一検査課ノ監督ノ下ニ営業スベキ大方針ト背反セル次第ヲ厳重詰問」していますが、鈴木商店の回答は、「予期ニ反シ損失ヲ計上スルニ至リシ候甚ダ遺憾至極ニシテ今後不始末ナキ様精々注意スル旨陳述致候」という始末でした。

 従って、冒頭に示したように、回収が進んでいるという状況好転の一方で、健全な手数料取引に従事して債務の圧縮を図ると鈴木商店は繰り返し正金銀行や台湾銀行に言明していたのですが、この約束は守られなかったということになります。

鈴木商店の債務と銀行の態度

 日本銀行の金融史資料の中に、1924年時点での鈴木商店の債務についての銀行別内訳を示した資料があります。それを一覧にしたのが、次の表です。

表2 1924年末の鈴木商店総債務内訳(鈴木の記帳による)

 これによると、台湾銀行の債権者としての地位が極めて高いこと、それに続いて正金銀行が台湾銀行貸出の4割強に達するほど貸付を行っていたことなどが確認できます。同時に注目しなければならないのは、鈴木合名に対しては台湾銀行以外の取引はなく、鈴木商店に銀行取引が集約されていることです。そして、そのなかで有力銀行の鈴木商店に対する貸出の対応は異なっていたことも明瞭です。三菱銀行が極めて少額であったことが目立っていますが、五大銀行という視点で見ると、住友銀行は一覧表に名前が出てこないくらい少額か、全く貸出を行っていなかったということになります。

 このような銀行の態度の違いがどのような判断から行われているのか、これは解明すべき論点になるかも知れないと思います。ただ、これは正金銀行資料の書棚からは解明できそうもありません。

 もう一つ銀行との関係を知ることの出来る資料が正金銀行の内部資料にあります。それが次の表です。ここでは1925~26年末の借入金と割引手形の残高が報告されています。これによると、1925年末から半年間で借入金200万円の増加と割引手形残高の900万円を超える減少が記録されています。そのなかで、台湾銀行からの借り入れが大きく減少する一方で、川崎銀行や藤本ビルブローカー銀行などからの割引手形形式での借入が急増していました。対台湾銀行債務の圧縮のために鈴木商店は、こうした銀行も利用して資金繰りの弥縫を図っていたということだと思います。

表3 鈴木商店の借入金と割引手形残高

 この資料でも、三菱銀行や住友銀行という五大銀行が登場せず、安田も少額にとどまっていました。個々の銀行がそれぞれの金融判断によって対応策を異にしたということができると思います。

破綻直前のバランスシート

 もう一つ、経営破綻の直前、1927年4月1日に新聞紙上に公表された株式会社鈴木商店の貸借対照表と利益金処分案は、次の表4の通りです。すでに震災手形法案の審議に絡む議会の混乱のなかで、金融恐慌における第一波の銀行取り付けが発生し、鈴木商店の破綻への懸念が広く報道され、世間の注目を浴びていたときの公表データです。ですから、そうした懸念を払拭するために「操作された」会計報告である可能性はあります。曲がりなりにも当期利益金が94万円計上されていることはそうした疑いをかえって生むかもしれません。しかし、正金銀行が回収は進んでいると捉えていたことを考えると、著しく不自然な数字ではなく、また株式会社鈴木商店設立時の貸借対照表との連続性も見出すこともできます。そして、この決算報告が鈴木商店が多額の銀行債務(借入金、支払手形、支店支払手形、そして「取引先及び債務勘定」)によってようやく支えられていること、銀行の貸出態度の変化によっては逃げ場のない窮地に陥るであろうことを紛れもなく示していたのです。

表4 株式会社鈴木商店決算 1927年3月末

 

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