Q: 先生のご専門はファンタジーですが、大学は理学部生物学科に進学されたんですね。
当時、ファンタジーというジャンルはなく、幻想文学と言われるものはありましたが、それすら正統文学の辺境でしたので、文学部に進学するつもりはありませんでした。中学生くらいから、神話や叙事詩、騎士物語などが好きで、ワーグナーおたくでした。ちょうど高校生のとき、トールキンの『指輪物語』が荒俣宏さんらによって紹介され、原書で読み、新しいジャンルができたことに感動しました。その後、翻訳を読みましたが、児童文学と解釈されて、「です・ます」調だったので驚きました。
理学部に進学したのは、理数系が得意だったのと、古いもの、特に恐竜が好きだったからです。
Q: 大学院は比較文学を専攻されていらっしゃったので、大学時代に変化があったのでしょうか?
大学時代、ファンタジーが徐々に浸透していったと思います。ちょうど脇明子さんが、ハヤカワ文庫やサンリオSF文庫で翻訳するようになった時期です。その影響を受け、脇さんと同じ大学院に進学しました。サンリオSF文庫で2冊ほど翻訳したあと、早川ファンタジー文庫ができたので、脇さんにならって、そこに売り込みにゆきました。
Q: 巽孝之先生もサンリオSF文庫で翻訳されていたようですね。
今、アカデミックな世界にいる方も、当時関わりが多かったですね。巽先生も筋金入りのSF創世期からの方ですし、大森望さんも当時編集者でしたが、すでに評論活動も始められ、SFとファンタジー・ジャンルが若くて活気があった時代でした。
今ではライトノベルや恋愛小説、ミステリにもファンタジーの要素が取り入れられています。隔世の感がありますね。映像が進化することで、ファンタジーが映画、アニメ、コミックにしやすくなったことが大きいと思います。
Q: 学術的にファンタジーは確立されていると思いますか?
まだ確立とまではいってないと思います。まもなく、『ハリー・ポッターと死の秘宝』(後編)が公開されますので、シリーズ完結後様々なファンタジー論が展開されるのではないでしょうか。ただ、現在はかなり児童文学とくっつけて語られているので、もともとの幻想文学由来の「現実を揺らす」「世界観を改変する」といった形而上的な面に、あまり光が当たっていないという気はします。
でも映像文化とゲームのおかげで、ファンタジーへの敷居は低くなり、ライトノベルの世界ではすでにテーマがファンタジーが主流となりました。修士論文でもそれらに関する論が提出される時代です。OVAのアニメ、ライトノベル、携帯小説の研究をする学生も増えてきました。最新のことは学生の方が知っていたりするので、学生と一緒にファンタジーの世界を進んでいる途中だと思っています。
いっぽうで古典的なファンタジーを研究する学生は減ってしまいました。『ナルニア国物語』は映画で十分なのか、ここ数年、卒論などでとりあげる学生はいませんね。逆に最新の映像ファンタジーの人気が高く、アニメ化された上橋菜穂子さん、ジブリ、ディズニーを研究する学生は増えました。
Q: ジブリはファンタジーでしょうか?
ファンタジーというか超自然的な要素がほとんどのものに含まれています。それと、『床下の小人たち』(M・ノートン)のシリーズは廃れましたが、『借りぐらしのアリエッティ』として映画化されることで原作を読もうという人が出てきました。『ゲド戦記』も、若い層にとってはそうですね。映画、コミック、アニメがけん引し、後追いで原作を読む流れになっていると感じます。
Q: そういう傾向をどうお考えですか?
今のファンタジー研究では、映像化を無視できないと考えています。
特にゲームはすっかり浸透し、大半の小学生がゲームに親しみ、ファンタジーが自然に入り込んだ環境で育ってきています。昔は異世界に行くまでの手続きが大変なファンタジーが多かったですが、今はすぐ異世界に行けてしまいます。代表的な『ハリー・ポッター』においては、魔法魔術学校と現実世界の距離がありません。実際にあってもおかしくないと読者に思わせるように、異世界への敷居は低くなっていると思います。
ゲームからノベライズしたファンタジーもあり、ファンタジーも多様化していますね。
宮部みゆきさんの『ブレイブ・ストーリー』や『ドリームバスター』も、宮部さんのゲーム好きから生まれた作品だと思います。どうやってファンタジーにしたのか興味があったところへ、ちょうど4月に『宮部みゆき全小説ガイドブック』が刊行され、そこでゲームと、物語としてのファンタジーの差についての論を執筆しました。
小説とゲームの関係はいま最も面白いと思っています。宮部さんはSFやホラー、時代小説は書いていましたが、いわゆるファンタジー・ジャンルの人ではなかった。それでRPGゲームのようなものがファンタジーだろうと考えて、『ブレイブ・ストーリー』などの小説を書いたのかな、と想像しています。
なので、純粋にファンタジーを書いてきた人との違い、宮部さんが通常書いている本との違いが面白かったです。
ファンタジーに近い時代小説と比べても違うし、読者の反応も様々のようです。宮部さんも児童文学に半分該当する作家なので、好きな学生は多いですね。
Q: ファンタジーはもはや本だけでは語れないですね。
ファンタジーと、ゲーム・映画との接点や関わりを見ているのが今は面白いです。
本だけの時代からどんどん変わって、『床下の小人たち』は「テンポが遅すぎて読めない」とか、「小人たちが逃げ隠れするだけで、前向きに立ち向かわないのでイライラする」との感想を持つ学生もいました。テンポの問題や生きる姿勢の問題もふくめ、ジブリなどの映画で元気に立ち向かい、戦うスタンスの方が、今の学生の共感を呼ぶのでしょう。
本だけでは語れない、というより、映画こそファンタジーだと思っている人も多いのでは・・・。だから原作は読まなかったりします。
Q: 先生が出会ったころのファンタジーとはだいぶ違いますね。
1980年代の『指輪物語』から、『ゲド戦記』のあたりまでが、いわば日本での第一期と言えますね。
ミヒャエル・エンデ『はてしない物語』は特に日本で大流行しました。自分の心理的内面を第二世界から見るという、考えさせるファンタジーです。河合隼雄さんが気に入り、心理学者お墨付きファンタジーとなり、「サイコファンタジー」と一部で言われるような時代が、1980年代からしばらく続きました。これが第二期。
その後、ネオ・ファンタジーと言われる『ハリー・ポッター』の爆発的流行の第三期を迎えます。面白さに回帰したとともに、これまでのあらゆるファンタジーの集大成として世に出てきました。『ハリー・ポッター』をきっかけに、かつての古典名作ファンタジーが次々映像化されるすごい時代が始まります。ゼロ年代は映像化の時代と言えます。
Q: 『ライラの冒険』は面白かったです。
『ライラの冒険』は原作が比較的新しいですが、『ナルニア国物語』などの古典も映画化され、アニメだけしかなかった『指輪物語』などの作品も実写化されるようになりました。『ゲゲゲの鬼太郎』、『どろろ』など、マンガからアニメに進化していたものを、さらに実写化するブームが到来しました。どうしてこんなに、わざわざ実写化するのか、興味深いところです。
今までファンタジーは映像化しにくかったので、何でも表現できるアニメでやるしかなかった。しかしCG技術の進化で、製作者が実写化したくなったのでしょうか。アニメを知らない世代でも、実写版『YAMATO』を楽しんだようです。
実写化を望む理由は、よりリアルに感じたいということかもしれません。しかし実写化すると不思議なものを自然に描けてしまうので、不思議なものが当たり前になってしまいます。敷居が低くなる分、幻想度が減る。アニメはまだ別世界の不思議な雰囲気が残りますが、実写化すると大勢の人が平然と観て納得する分、普通化・現実化されます。説得力が高くなったぶん、もう一つの現実になってしまう、というジレンマです。
10年前まではファンタジーとリアリズムは児童文学において、はっきり分かれていて、教員も住み分けていました。
しかし今は、ファンタジーをリアリズムで描く、というか、書き方自体が完全にリアリズムなファンタジーが存在します。上橋菜穂子さんの『獣の奏者』も、設定は不思議でも、書き方は普通の小説と同じです。これによりファンタジーの一般的評価が高まった分、不思議感がなくなった、空気が違う感じもなくなった、つまりファンタジーとリアリズムが区別できなくなったと思います。
日常にファンタジーが入り込んだため、「ファンタジーが好き」とわざわざいう学生がいなくなり、でも好きな物を聞くと、「それってファンタジーじゃない」というケースが増えています。
Q: これからのファンタジーはどうなっていくのでしょうか?
上橋菜穂子さんのように架空の世界をリアルに説得的に描くという方法と、もう一つは『ライラの冒険』のように現実に疑問をつきつける世界観で勝負する方法と2つあると思います。『ライラの冒険』はキリスト教に対し挑戦的な世界を描き、禁書扱いした地域もあります。
ファンタジーには宗教の根本を揺るがすような、強力なパワーがありますね。昔は宗教家、たとえばジョージ・マクドナルドのように牧師さんがファンタジーを書いていたくらいなので、もともと世界観を作るという点が、ファンタジーと宗教は同じです。ファンタジーはあくまでフィクションですが、実は宗教も、信者以外にとってはフィクション的要素が強いところがあります。だから、ファンタジーというフィクションに強く反発して、排斥しようとする。ファンタジーの面白いところはそういうパワーがあるところです。
日本の作家はあまり大きな世界観では描かないですね。せいぜい生と死の世界を行ったり来たりするくらい。
『ハリー・ポッター』は別世界をよそに作るのではなく、現実の中に別世界を入れ込むことで、新しい現実を提示しました。トールキンの時代は外に別世界がありましたが、今は現実に別世界を取り入れた、新しい世界観を提唱するのが主流となっています。『ハウルの動く城』も同じで、12のパラレルワールドがあり、その1つがこの現実である、という考えに基づいています。楽しい世界観ですが、その分、現実の位置づけ・重みづけが軽くなってしまいました。現実をメタにとらえる傾向が、「世界観ファンタジー」では強くなっています。宮部みゆきさんの新作『英雄の書』もこの傾向が強いのですが、日本人が好きそうな世界観に富んだファンタジーだと思います。
これまで幻想文学が持っていたもの、現実への疑問とか葛藤とかが、映像のゼロ年代ですっかり飛び越えられてしまったように感じます。別世界があるのは当たり前。
Q: いろんな思想に影響を与えそうですね。
現実を揺らすのがファンタジーと1980年代から言われていましたが、いまは揺れすぎて、現実の確固としたものがなくなりつつあるのかもしれません。ファンタジーだけでなく、現実の世界でもバーチャルリアリティなどを経験することで、実は基盤となる現実や日常というものは、もはやかつてのように厳然とは存在していないのではないか、という気もします。
例えば、私の住んでいる浅草は町の作りは江戸時代で、明治時代の人力車が走るなど、考証無視の時代劇の中に人々が生活している、不思議なファンタジー空間と言えます。ディズニーランドのように囲いがあるわけではなく、現実と別世界の境界線がありません。水木しげるさんの故郷・境港市も、人工的でないレトロな街並みに妖怪のブロンズ像が何体もあり、フィクションと生活空間が混じっています。生活空間があって、ファンタジーがそれと別にあるのではなく、一体化して溶け込んでいる時代だと思います。
Q: ドラマや小説にも、妖怪が普通に登場していますね。
日本でも妖怪小説が一般小説化しています。『しゃばけ』(畠中恵)は日本ファンタジーノベル大賞優秀賞を受賞しましたし、『妖怪アパートの幽雅な日常』(香月日輪)も産経児童出版文化賞フジテレビ賞を受賞しました。これは高校生が住むアパートには妖怪も幽霊もいるという設定で、現実と異界が混じって、しかもそれが自然に描かれます。ファンタジーと言われてそうかと気がつくくらいの自然さで、まことしやかに書かれているのが特徴です。
恋愛小説の分野、特に翻訳小説では、恋愛相手が人間でないのもめずらしくなくなりました。『トワイライト』シリーズはバンパイアでしたし、創元推理文庫にはその手のロマンスの山のようなラインナップがあります。あらゆるジャンルにファンタジーが感染してきていると言えますね。普通の恋愛小説より、人間ではない相手との恋愛が人気だったりして、バンパイアも昔はホラーで遠くにいる怖いものだったのに、恋愛対象として近づいてきました。
ヒーローも同じ傾向があります。スーパーマンは異星人で、ウルトラマンは空から来ましたが、今はスパイダーマン的な等身大のヒーロー。彼方の超越的な世界というものはない、ファンタジーはここにある、という発想が様々な方面に浸透しているのではないでしょうか。
そうなるとホラーは逆に、従来の形では成立しなくなってしまいました。サイコホラーや、細菌などバイオホラーの方向にしか進めなくなっています。今、吸血鬼でホラーをやろうとすると、パロディかギャグになってしまいます(笑)。
『ダレン・シャン』シリーズは児童文学として流行しましたが、戦いがメインで、吸血鬼としての負の部分や負い目はほとんど描かれていません。
あまりに何度も映像化されすぎると、その印象が強く残り、何をやってもそのパロディになっていくので、ギャグに見えてしまうのだと思います。それを踏まえて『ハリー・ポッター』も怖い部分はギャグっぽく描かれています。「半分首なしニック」が首なし男のパロディだったり、「嘆きのマートル」がトイレの花子さんだったり、定型パターンは昔は怖かったのに、反復によって怖さが薄れ、笑いに近づく。
ファンタジーはもともと昔の話を再話するなど、繰り返しや反復を楽しむところがあります。「美女と野獣」の話がギリシア時代からえんえんと何度も再話され、時代に応じて変わってきたように。しかしその繰り返しも映像化の時代でいっきょに飽和していき、いったいこれから新しいものが生まれるのか、よくわからない状況になっています。
Q: 今までお話を伺っていると、文学や文化でファンタジーの要素がないものは、ありませんね。
そうですね。歴史小説は別でしょうが、純文学にも浸透しています。村上春樹さん、川上弘美さんの小説や、たとえば小川洋子さんの『博士の愛した数式』もファンタジーと考えられます。
マンガも、ストーリーや設定をきっちりしなければ納得されない、つまりファンタジーやSFマンガが特別だった時代から、最近は雰囲気で簡単にファンタジーを取り入れているものが増えています。これは、はっきり設定しなくても、読者が自然に受け入れて、何が出てきても平気、何でもありになっているからだと思います。
Q: もう古典を研究する必要はないのでしょうか。
『オズの魔法使い』などは古典ですが、すでに何度も映画化されて、そのつどいろいろな面を見せてくれます。原作を私は好きなのですが、むしろ映像化によって、見せてもらえる新しい面を追求する、というか、映像やパロディ小説という、「原作解釈の最先端」を追いかける方が面白いと思います。
古典を研究する意味はあると思いますが、現代の子どもたちと古典の関わりは減ってきています。児童文学は、大人文学の古典と違って、現代の子どもたちに読まれないと意味がないところがあります。その意味では、いわゆる古典は読まれなくなっていますね。
昨年刊行された『決定版 心をそだてる これだけは読んでおきたい 世界の名作童話』(講談社)の編集に携わりました。「世界の名作」となると膨大な数があるので、リストを基に編集者と議論しながら、知名度が高い、いまでも古典的名作だ、という観点で選んでいったら、全部ファンタジーになってしまいました。この作業をとおして、ディズニーやテレビアニメで小さい時から見た作品、つまり映像化されたものは知名度が高くなり、原作も時代とともに残っていくという法則が明らかになりました。新しいところでは『小公女』、『ガリバー旅行記』もそうですね。そうなると、何度も映像化される作品が「名作」ということになります。
映像化して面白いものは何度も映像化されますし、ファンタジーは当時の時代的背景を知らなくても済むのが特徴です。リアリズム作品ですと、時代を知らないと面白くない場合がありますが、いちいち時代的背景を子どもに説明するのは難しい。そういうものはともすると、研究者が、当時の子どもの価値観、興味を知るために読むような資料的作品となってしまいます。
ファンタジーは映像化が繰り返されてゆきやすい。その後押しをしたのはディズニーです。『プリンセスと魔法のキス』、『塔の上のラプンツェル』、『リトル・マーメイド』。全てファンタジーですし、原作と違ってハッピーエンドです。ハッピーエンドの方がいいという人が多いからでしょう。そしてそれが原作を駆逐しつつある。
一方で映像化されず、忘れられてゆく名作もあります。アーサー・ランサムの『ツバメ号とアマゾン号』シリーズは大変流行し、「ランサミアン」と呼ばれるファンがいたくらいでした。湖で子どもがヨットをあやつって海賊ごっこをしたりする内容で、具体的な食べ物やヨットの乗り方が生き生きと描かれ、古き良き時代を感じる人に受けました。ですがリアリズムなので映像化してもさほど人を驚かさない。その理由で知名度が低くなってしまったのでしょう。
不思議な普通ではない話が映像化され、映像化されない、二次利用されない話は残らないと言えます。
『不思議の国のアリス』も何度映像化されたか、わかりません。だから150年以上前の作品なのに今でも残っているのでしょう。映像制作側の意欲をかきたて、観る側の、普段見られないものを見たいという欲求を満足させるのがファンタジーの魅力です。映像化されて、そのあとで原作も読まれる関係になっています。
逆に、映像化されないものは、現役の子供の本としては命脈が尽きていくということになります。ジブリのおかげで『床下の小人たち』は救われましたね(笑)。
Q: これからファンタジーを描いた「本」はどうなっていくと思いますか?
どうなっていくかは、わからないですね。
児童文学(に限らずですが)は回転が速くなり、ロングセラーというのはなくなっていくかもしれません。またははっきりと独特な設定をしている、例えば『十二国記』のような意欲的な作品が残り、簡単に日常を描いたファンタジーは滅んでいくのかなと思います。
Q: 先生は最近、プリンセスを題材にした本をだされましたね?
『お姫さま大全 100人の物語』ですね。歴史上のお姫様、現実のお姫様、映画化されたお姫様など様々なジャンルから選びました。特に、19世紀にファンタジーはありませんでしたが、オペラとバレエがあったので、ファンタジー的要素はオペラとバレエで描いていたのは興味深いです。
故ダイアナ王妃も紹介されていますが、明日ちょうどロイヤルウエディングがあるので(注:インタビューは4月28日)、お姫様は注目されているようです。今ではプリンセスも、現実と距離が近くなっていますよね。ケイトさんも人間らしい、親しみやすい雰囲気があります。ダイアナさんは伯爵で貴族の娘でしたから。
メグ・キャボットの『プリンセス・ダイアリー』をディズニーが映画化した『プリティプリンセス』もアメリカの普通の高校生が、実はおばあさまがヨーロッパの小国の女王様だったという話で、身近なプリンセスを題材にしています。
『プリンセスと魔法のキス』のお姫様は黒人でした。それに人間がカエルになって結ばれるという、キリスト教的宗教観にも踏み込んだ内容で驚きました。キリスト教では人間と動物の結婚はタブーですので、昔話で動物と結婚する場合は、魔法で人間が動物になっているという設定にしていましたね。この他の作品を見ても、ディズニーの世界観は今までと変わってきていると感じます。
世界観、価値観はかなり揺れています。20世紀の価値観やお約束事が通用しなくなってきました。この風潮にファンタジーは大きな影響力を与えていると思いますし、今後どうなっていくのか、楽しみです。