日本経済史・経営史:研究者のひろば コラム

研究室の我楽多箱

第3回 古河市兵衛翁伝の編纂資料 (続き)

武田晴人

第3回(1)3.古河市兵衛の書簡綴

3.古河市兵衛の書簡綴

 古河市兵衛翁伝の関係資料のなかで、幻の貴重資料と言ってよいのが、市兵衛の書簡類である。この書簡については、『古河市兵衛翁伝』の巻末附録として「手束」と題する50頁ほどの記述があり、そこに詳しく紹介されている。

 書簡による指示、確認、督促などが、市兵衛流の現場管理であり、事業経営の要諦であった。連絡手段としての書簡が現場と市兵衛のいる東京瀬戸物町本店をつないでいた。頻度が高いこととともに、その記述の方法が独特であり、とくに受信の内容を反復した上で、返信を記していることが資料的な価値を高めている。というのは、書簡の場合には史料としてみると双方向の記録がないと、どのような問題がどのような経緯で処理されていくのかがわかりにくい場合が多くなる。ところが市兵衛の書簡は受信の反復によって、やりとりされている問題が明確にされる。それは行き違いなどを避ける上でも不可欠な、この時代の情報の伝達の速度が遅いという制約の中で工夫されたものであった。

 市兵衛翁伝では、編纂時に残っていた市兵衛の書簡について、足尾への市兵衛の発信と足尾からの受信数を数えている。それによると、年次が限定されるが、別表のように年間100通前後の書簡が市兵衛から送られ、それに相当する返信がある。週に2回ほどの発信ということになるが、鉄道も利用できない時代だったから、たとえば月曜日の発信の返事が届くのが早くともその週の後半になる。そして、その時にはすでに次の指示が発信されていることもあり、どの発信に対する解答が返信されたのか、現場からのどの書簡での問い合わせに回答しているのかが、明確にされる必要があった。これが反復の理由。現代では、e-Mailのやりとりで受信したメールを残したまま、返事を書くことでやりとりが記録されているが、これも短いメールでのやりとりの主題が不明確になることを防いでいるが、市兵衛の場合には、情報伝達速度が遅すぎることが理由であり、現代では大量の情報が瞬時に流れるためにという、条件の違いはあるとはいえ、似たような現象が生じている。


>>表:足尾銅山との書簡の往復数


 市兵衛翁伝の編纂時点で集められたと考えられる書簡は、すべて宛先鉱山別に年月日順に整理され、それぞれ年を基準にしながらまとめられている。このうち、足尾銅山分については、市兵衛の書簡だけでなく、足尾鉱長からの返信が一部残っていたことから、次表のような全18冊に綴られていた。

 このリストによると、明治15年分を除いて「甲」「乙」と記号が付されている2系列がある。このうち、甲系列は「原本」であり、乙系列は「写本」と目録に記載されている。写本があるのは、これも市兵衛翁伝に写真版で紹介されている原本の直筆が簡単には読み下しにくい独特の字体で埋め尽くされていたからであったと推測される。かつて、古河鉱業創業100年史編纂室でこの原本をひもといてみたことがあるが、大学院生になったばかりの古文書の読み解き能力では全く歯が立たず、早々に見るのを断念した記憶がある。そうしたこともあってか、原本を楷書体で写した写本が作られている。明治15年や明治31年以降について、原本の保存がない理由は判明しない。


>>表:足尾銅山関係の古河市兵衛翁書簡と足尾鉱長書簡


 資料目録上で確認できる市兵衛翁の書簡は足尾だけではない。他の鉱山についても鉱山ごとに整理され、それぞれに原本(甲系列)と写本(乙系列)が年次で対応したかたちとなっている。全部で56冊であった。ただ、鉱山ごとに保存の状況が異なっており、院内鉱山については、阿仁鉱山と同じ時期に官業払い下げで取得したにもかかわらず、明治20年以降の書簡は残されていなかったようである。


 

>>表:初代翁書簡・各鉱山宛


 これだけの手掛りしか残っていないので、それぞれの鉱山に何通ほどの書簡が送られていたのかは、わからない。40年前に史料整理のお手伝いに通っていた古河鉱業創業100年史編纂室の鍵のかかる書棚に収納されていたので、そう度々史料を見せていただくこともできなかった。とても量が多く、複写することも費用的には難しそうだったからでもある。

 それにしても市兵衛の書簡の発信数は驚異的な数になる。足尾だけで週に2回程度として、それ以外に阿仁・院内・永松・水沢・草倉・東雲など各事業所にも発信していたとすれば、足尾ほどの頻度ではないにしても相当数の書簡が発信されていることになる。経営史的な関心からは、どの範囲のことが市兵衛の指示や許可を必要とし、どの範囲のことが現場からの報告の承認であったのかなど、手紙の一つ一つをひもといて確認していくことが必要かも知れない。

 ただ、残念なことにこの資料は足尾についての写本が断片的に手元に残っているだけで、これも原本の再発見が必要な資料になる。断片的というのは、足尾の写本を撮影したフィルムが少しあるにはあるのだが、それらはピンぼけやライティングの失敗により判読が難しいものだからである。まさしくガラクタ化してしまっていたために、40年近く研究室の片隅で放置され、『地域の社会経済史』(有斐閣、2003年)で足尾銅山について論文を書くときに引っ張り出して、読めるところをつまみ食い的に利用した以外には使うこともなかった。決して褒められた史料の利用の仕方ではない。読めないところに何が書かれているのかによっては大きな事実誤認が発生するからかも知れないからである。

読めなかったのは、従来型のリーダーやスキャナーでは、ライティングが強すぎたところは文字が飛んでしまい、読むことができなかったためであった。実はこうした事情からあきらめていた資料が、最新のリーダーで読むと、工夫次第で少しは読むことができそうだということが、この春、退職前に研究室の整理をするときにようやくわかった。


 サンプル画像1(足尾銅山宛初代総長書簡、写本、明治15年上期より)は、古いフィルムスキャナーで作成された画像、画像2(サンプル画像1と同一箇所の鮮明化の処理画像)は最新の機器を使い、白黒二値ではなく、グレースケールでネガとして一端スキャニングしたあとで、これを反転処理したものである。間違いなく、技術の進歩が可能性を広げてくれている。そんなことから少し楽しみは増えたので、時間ができたら改めて読んでみたいと思っている。

第3回(1)3.古河市兵衛の書簡綴