日本経済史・経営史:研究者のひろば コラム

研究室の我楽多箱

第4回 藤田組―同和鉱業『七十年の回顧』編纂資料

武田晴人

第4回(1)1.史料の概要/2.研究室での再整理

1.史料の概要

 同和鉱業(株)が1950年代初めに『七十年の回顧』を編纂するために蒐集したひとまとまりの資料が1980年代まで東京駅八重洲口に近い鉄鋼ビルにあった同和鉱業本社にマイクロフィルムの形で保管されていた。その資料は、『保管資料目録』という罫紙54頁ほどのリストで全容を知ることができる。リストが書かれている罫紙は14行だから、これから概算すると点数にして700点くらいになるはずのものであった。

 「保管されていた」と過去形で書いているのは、2015年の春に問い合わせたところ、現在では、同和鉱業の本社業務を継承した同和ホールディングスでは所蔵が確認できなくなっているからである。私がこの資料のマイクロフィルムを見たのは1970年代後半の大学院生時代のこと。それからすでに40年近くがたっているから無理もないのかもしれないが、1985年に同社が『創業百年史』を編纂したときには参照されているし、佐藤英達氏がこの資料に基づいて研究論文を発表し始めるのが1990年代の終わりからなので、その直前の時期くらいまでは所蔵されていたと考えられる。しかし、その後、同社の組織変更やビルの建て替えなどの事情もあり、現時点では「所蔵が確認できない」、失われた史料になっている。

 そのすべてではないが、かなりの部分が幸いなことに武田研究室に残っていた。分量にすると一棚分(1メートルほど)である。産銅業史をまとめるときに利用された重要な資料群の一つであったし、その後何本かの論文をこの史料を使って書いている。「明治前期の藤田組と毛利家融資」『経済学論集』48巻3号、1982年、「資料紹介、金属鉱山における飯場頭の経歴」『経済学論集』53巻2号、1987年、「小坂鉱山売却計画と藤田組の組織改革」『社会科学研究』51巻1号、1999年などである。

 このひとまとまりの資料は、同和鉱業の社史を編纂するという目的に沿いながら、その創業者である藤田伝三郎と藤田組の事業活動に関する記録を蒐集したものである。ただし、鉱業会社として事業の継承関係を持った同和鉱業(昭和20年12月に商号変更)が蒐集主体であったことあり、もともとの藤田家の史料などは同社には保存されていなかった。そのために蒐集された史料は、さまざまな関係機関・組織が所蔵していたものを筆写するなどを通して集められた2次資料というべき記録であった。

 具体的には、藤田家の事業活動の継承会社となっていたのは藤田株式会社であり、蒐集活動当時大阪に所在した同社に残されていた藤田伝三郎関係の資料などが罫紙など書き写されて社史資料とされた。ただし、1980年代初めに私が藤田株式会社を訪問したときには、同和鉱業社史資料に筆写資料として残っていた史料の原本はほとんど保存されてはいなかった。

 このほかに蒐集されているのは、①同社のOB(池田謙三、坪井美雄、山下成一、松永孝恒、巽新助など)から提供された資料、②小坂・大森・柵原などの傘下有力鉱山の現地に所蔵されていた資料の筆写資料、③社史編纂室が実施した関係者、たとえば久原房之助などに対するヒアリングの記録、座談会の記録などである。①②はともに若干史料が原本と思われるものがあるが、ほとんどが筆写資料である。1950年前後の時期の複写技術では筆写が最も適正な技術選択であったと思われるが、社内資料であっても現地から取り寄せることはほとんど行われず、編纂室員が訪問して調査し、現場事業所の社員の協力を得て筆写したものが社史資料としてまとめられていると推察される。


2.研究室での再整理

 これらの社史資料が、なぜマイクロフィルムとして保管されていたのかは不明だが、この資料調査では、当面の鉱山史研究に直結しない資料などもできるだけ集めるようにしたことから、このひとまとまりの社史資料のおおよそ3分の2くらいがマイクロフィルムからプリントアウトされた形で手元に残った。こうした場合、蒐集のネックになるのは、時間と費用だが、このケースでは都心部の同社に何度も通うことで時間的には制約は小さかった上に、リーダープリンターによるプリントアウトの費用のほとんどを企業側が負担してくれるという幸運に恵まれた。こんなことは滅多にないが、安藤良雄先生の紹介で同社の役員に資料収集の協力について御願いすることができ、そのルートで閲覧複写の許可を得たという経緯がこんな厚遇を享受できた理由であったと考えている。

 ただし、この史料は研究室で保存するという点で問題があった。 1970年代後半に同社が保有していたリーダープリンターは、湿式のコピー技術によるものであった。今ではほとんど見ることはないタイプの機械だが、特殊な薬剤がコーティングされている専用紙を光学的に反応させて液剤で定着するもので、青焼きとか写真の技術に近いものであった。なぜ問題かというと、この技術でプリントされた資料は、時間とともに劣化するからである。とくに光によって褪色が進んで資料が読めなくなる危険があった。古い青焼きの史料や、昔のコンニャク版の史料が読めなくなるケースがあるのと同じである。

 そこで、10年ほど前にこのプリントされた資料を改めてゼロックスのコピーに転写し直し、部分的にはこれをスキャニングして保存延命措置をとった。ただし、このプロセスは、ゼロックスが基本的には白黒二値で情報を処理する仕組みであるために、画像情報としては複写を繰り返すことで生ずる「劣化」を免れることはできなかった。今から考えれば、プリントアウトした紙を写真撮影するか、高解像度のグレースケールでスキャニングすればよかったのだが、研究室の周りでそれができ機材も費用もなかった。

 それと別にもう一つ、このプロセスの後処理で大きな失敗をした。それは、当時の圧縮技術の限界などもあって、スキャニングした画像データのデータ量が大きくなりすぎること、それに対して使える記憶媒体の容量が小さかったことに起因している。DVDやUSB 、SDメモリーカードなどの大容量記憶媒体がまだなかったことから、主として利用したのは230MBの光磁気ディスクだった。この磁気ディスクにある程度効率よく収まるように、データ量を小さくすることとして、ノイズ除去という処理を施したところ、ノイズと一緒に濁点、半濁点なども一緒に消え、全体にひどく劣化してしまったのである。幸いなことに、ノイズ除去前のデータを削除する前にこの失敗に気がついたので、影響は後を引かなかったが、時間をかけて後処理をして使えない史料を作ったのだから、もし元のデータが失われていたらと思うと冷や汗ものであり、よい教訓になった。

 なお、この資料は、学術研究のための資料として公開することの許可が得られれば、整理し直し利用できるような仕掛けに載せたいと考えている。

第4回(1)1.史料の概要/2.研究室での再整理