日本経済史・経営史:研究者のひろば コラム

研究室の我楽多箱

第11回 小野田セメントの社史資料

武田晴人

第11回(1)

 秋田県庁文書が自治体公文書として見た限りでは最大規模だったとすれば、企業史料では、小野田セメントの残した企業資料の多さにも驚かされた。三菱史料館や三井文庫の書庫を見る限り、その所蔵している文書の期間や幅の広さはアーカイブとして立派なことは間違いないが、単独の企業の資料群で、創業期から戦後初期までのひとまとまりの史料として見たとき、小野田セメントの史料ほど内容が充実したものは、他に例はないのではないかと思われる。

 同社は、明治初めの士族授産授業として創設され、山口県小野田を拠点に浅野セメントに次ぐ業界第2位の地位を築いた。本社が第二次大戦後に東京に移されるまで、小野田市が創業以来の本社所在地であり、そこに集約された社内文書がほぼ完全な形で残っていた。同社の社史編纂に執筆者として参加することを求められ、その執筆準備のために小野田セメント小野田工場を訪れたのは、1978年3月中旬のこと。その時の驚きは今でも忘れられない。会社史の資料といえば、地下の倉庫などに雑然と積み上げられ、埃が積もって直ぐにはその資料の内容も重要度も判読できないものが多いと思っていたのだ。しかし、小野田セメントの史料はていねいに整理、保存されていた。体育館ほどの建物の壁一面と、それでは足りずにその建物につながる建屋にかけて書棚がしつらえられ、そこにびっしりと資料が並んでいた。当時のメモでは会議室、講堂2階、試験課2階、住吉神社倉庫などを調査している。

 史料のほとんどが、セメントの紙袋に使われていた厚紙で表紙を付けられ、楷書で一つ一つていねいにタイトルが付されて配列されていた。史料の当初からの形というよりは、あとからこのような外観を整えたのと推測されたが、その分量の多さとていねいな保存形態は、現在までさまざま企業資料を見る機会があったなかでも、比類のないものであった。戦後まで本社が小野田にあり、しかも近隣の工業都市には軍需関連の工場もあって空襲の被災があったが、幸いに小野田は戦災を免れたからとの説明であった。

 同社では昭和初めに50年史が編纂され、その後昭和20年代に70年史を編纂することを計画したことがあり、資料の整備はその時に進められたようである。調査当時残っていたのは昭和30年代後半に作成された資料目録6点であった。

 ①昭和35年3月 試験課階上第2書類庫中 販売関係保存古書類目録

    B4 10頁 史料点数 341点

 ②昭和37年5月 試験課階上書庫内 庶務、総務関係古書類目録

    BA 4頁  史料点数 134点

 ③昭和37年6月 中研書庫 秘書、総務、庶務関係古書類目録

    B4 24頁  史料点数 560点

 ④昭和38年5月 試験課階上書庫内 勤労、労務関係(含健康保険組合関係)古書類

    B4 13頁  史料点数 441点

 ⑤昭和39年5月 試験課階上書庫内 倉庫、資材購買関係古文書目録

    B4 11頁  史料点数 375点

 ⑥昭和39年8月 事務所書棚保管古書類目録

    B4 40頁  史料点数 1633点(目録表紙掲載の冊数、他は各目録通番号による)

 この目録に記載されているものは、基本的には昭和26年までのものとされているが、①~⑥の合計で3484点の資料冊子が少なくとも保存されていたことになる。

 会社史の編纂に供するにはあまりに量が多く、短時間で資料のタイトルから必要と思われる史料を目録でチェックし、それらを東京の社史編纂室に送る手配をお願いすることになった。その中には重役会の決議録、株主総会の速記録など経営の重要な意思決定に関わる記録だけでなく、工場ごと(小野田セメントは小野田だけでなく、朝鮮や満州なども含めて複数の工場を操業していた)の年次の報告書(考課状)が、しかも生産関係と販売関係、資材関係などそれぞれ分かれて作成されており、それがほぼ完全な形で残っていた。1年ごとの考課状がかなりの厚みを持っており、そうした時系列に追うことのできる史料は基本資料であった。それだけでなく、セメント連合会に関する資料綴りも見事な形で残っており、このカルテルとの関係は戦間期の産業部門における競争と協調の関係を明らかにする貴重なものと考えられた。残念なことに連合会関係については、社史にはそれほど立ち入って記述することはできなかったが、会社史の編纂が終わったあと、改めてその資料を借り出して橋本寿朗さんが「セメント連合会」という論文を『両大戦間期 日本のカルテル』(御茶ノ水書房、1985)に書いている。橋本さんとは『経団連30年史』に続いての社史の執筆になったが、社史編纂にとどまらない成果を学界に提示することができたのは、小野田セメントの好意によるものであり、感謝している。

 さて、史料に戻ると、70年史編纂の試みは目録の作成だけでなく、少なくともいくつか「稿本」とでも評価すべきまとまった資料もあった。たとえば『小野田工場沿革史草案 工場設備』とか、『沿革史編纂資料(財政)』、同(附表)や大連工場や平壌工場の販売関係をまとめたものもあり、これらは社史の執筆には便利なガイドラインとなった。一般的にはこうしたとりまとめがあると、元の資料が廃棄されていることも多いのだが、小野田の場合には元の資料も手に余るほどに残っていた。コンニャク版といわれた紫色の印字が時々薄れて読みにくいという難点はあったが、史料を読むことの楽しみをこれほどふんだんに味わったことはない。

 そのなかで、記憶に残っている一つは、三井物産と小野田との一手販売契約書が見つかって、それまでの財閥史の理解とは少し違った評価が生まれたことである。当時は三井財閥史の研究などで、三井物産が筑豊の炭坑などと締結した一手販売契約は三井物産による石炭市場支配の有力な手段と考えられていた。そうした評価が拡張されて三井物産と一手販売契約を結んだ小野田セメントも三井傘下に組み込まれて販売の自主性を失ったと見られていた。しかし、残っていた契約書は、簡単に言えば販売委託の契約であっても、販売条件の決定について小野田の自主性が強く残り、契約としては対等であり、三井物産によって経営行動を左右されるというものではなかった。社史ではこの点を強調して書いたが、論文ではないから、三井財閥史研究の誤解を解くことになったどうかは分からない。単純な事実の確認にすぎないともいえるが、そうした形で新しい発見が史料によって浮かび上がるというのが史料の持つ雄弁さなのだと思う。

 このように史料がていねいに残されていると、その企業がどのような経緯で経営方針を定めたのかなど、かなり詳しく再現することができる。これは史料の読み手の力量というよりは、史料そのものの力であり、むしろ資料を通して読み手は出来事をかなり詳細に追体験することができる。そして、それによって読み手の力が鍛えられていくということを実感する。たとえば、同社が大連や平壌などの植民地に工場を建設する際には、かなり詳細な調査に基づいて、計画案が重役会に提出される。そこでは、市場調査に基づく需要予測によって工場の生産能力が決定され、それに必要な設備投資に必要な資金調達、そして調達した資金が工場の操業後の収益予想に沿って何年で償還可能かが、明らかにされていく。こうして計画全体の整合性が議論され、重要な意思決定が行われていくことになる。考えてみれば当たり前のことなのだが、そうした議論の進め方を研究者が知ることができるのは、史料を介した追体験でしかないことも間違いない。そして、一度そのような進め方を知ることができれば、どのような企業を対象にした研究でも、ある重要な決定に際して考慮されるべきことがらが、十分に視野に入って議論が進められ、適切な結論が導かれているのかを点検することが出来るようになる。

 今、この史料がどのような状態になっているのかを残念ながら知らない。山口県史の編纂作業の過程で編纂グループのメンバーが史料調査に入り、ほんの一部の史料を県史の資料編に収録している。刊行が2010年のことなので、その少し前まで、私が見た時と同じではないにしても、史料が残っていたことは確かなようであるが、小野田セメントはセメント業界の再編成に沿って1994年に秩父セメントと合併したのち98年には日本セメントとの合併によって太平洋セメントとなっている。企業合併は、特に被合併企業の資料の廃棄につながることも多いだけに心配である。企業資料としては、文化財指定して記憶遺産として残してもよいと思うものだから、散逸していないことを祈るばかりである。

 

第11回(1)