日本経済史・経営史:研究者のひろば コラム

異端の試み

第17回 近代編4 産業革命研究の到達点―大石嘉一郎編『日本産業革命の研究』をめぐって

武田晴人

第17回(1)1.大石嘉一郎の産業革命研究/産業革命期研究への関心/大石説の特徴と宇野理論
 (2)二部門定置説を再評価する/再生産論の具体化という方法/産業構造から経済構造へ、そして階級構造の分析
 (3)綿業中軸説の基礎としての宇野理論
 (4)質疑

1.大石嘉一郎の産業革命研究

 まず、大石さんが書いた一連の参考文献に取り上げた論文から始めようと思います。その後で、大内さんの議論と高村さんの議論も視野に入れて議論を進めます。

 大石さんの論文には、大きく言うと二つのポイントがあります。一つは、山田盛太郎以来の研究史全体をどう理解するか、あるいは、どう批判的に継承するか、という問題です。

 二つめには、そのことを踏まえて、日本の産業革命をどのようなものとしてとらえるかという議論があります。参考文献の論文(A)は主として後者のことを書いたもので、論文(B)は先行研究批判を意図したものです。これらの議論は学生社シンポジウム(C)や産業革命研究会がまとめた今回のテキストに要約した形で改めて提示されています。

 本人たちが「通説」と言っている時には、通説であるかどうか怪しい場合が多いのですが、広く日本の歴史学界をみた場合には、これから紹介する産業革命に関する大石説は旧講座派的な伝統をふまえた通説で、概ね受け入れられていると考えてよいと思います。もちろん、日本経済史の領域では、例えば三和良一さんの教科書ですとか、あるいは『日本経済史』という岩波のシリーズでも、この講座派の系統とは全く違う議論をしているわけですから、研究状況から見ると多様な意見が表明されたままの状態にあるというべきかもしれません。後半でとりあげる高村直助さんの議論も講座派批判です。他面で、経済史の枠を取り払って歴史研究全般でみると、講座派的な見解の影響力が強いようです。いずれにしても近代社会を理解する上では産業革命を避けて通るわけにはいきませんから、きちっと研究史を理解し、それぞれ自分なりに考えておく必要があります。

 大石さんは1927年生まれですから、32才の時に論文(A)を書いたわけです。自由民権期研究に関連して経歴を紹介したように、大学院へは行かずに福島大学の助手になり、味噌・醤油醸造の実家の経営に携わりながら福島大学で自由民権期の研究を始めます。その後、東大の社研に移って産業革命研究会を、大石さんより10年歳下の高村さん、石井寛治さん、中村政則さんなどと始めました。大石論文(A)に触発された若手が集まったのです。1960年代の半ばのことです。1972年に出ている学生社のシンポジウムの本はその途中経過報告のような側面を持っています。この時に大石さんが40歳代の真ん中、ほかの人たちはほとんどが30歳代です。メンバーみんながすごく若く、私たちからみると大先生が練り上げられた堅固な議論を展開しているように思えるのですが、若い世代が新しい研究課題に意欲に燃えて、新しい議論の基盤を作ろうとしているのです。こういう状況を理解して読んでいかないと、大事なことを見落とす気がします。そこでは、40年前の日本資本主義論争以来のさまざまな議論を発掘して再吟味しながら、これを批判的に継承して産業革命期以降の経済史研究をどう進めていくかを議論しています。それからさらに50年以上たっていますから、現在の私たちも、単に「古い議論」として切り捨てるのではなく、どのように継承できるかを考えていこうと思います。


産業革命期研究への関心

 日本の経済史研究を振り返ってみると、1950年代には明治維新史研究や地主制研究が主流だったようです。時期的には、幕末維新期から明治10年代くらいまでの日本における地主制の形成とか地租改正前後の寄生地主制成立が中心課題でした。別の言い方をすると、資本主義社会への移行期が問題になっていました。しかし1960年代には移行期の議論が行き詰まりを見せいていました。具体的には、服部之総さんの問題提起に起点をもつマニュファクチュア論争とか、大塚久雄さんの局地的市場圏モデルに基づく自生的な発展の検出という実証的な試みが期待したほどには成果が上がらなかったのです。いくつか注目すべき事例は見いだせたのですが、商業的な発展の中心は三都の商人たちが主たる担い手になる遠隔地商業であったりするという事実を覆すことはできない。そのために改めて「上からの資本主義」という捉え方に戻っていこうとしていました。それが幕末開港をめぐる芝原拓自さんなどの研究になっていきます。

 このような動きに対して、移行期の問題の重要性も認めつつ、近代に成立した資本主義社会そのものを歴史学、経済史学が研究対象とすべきだという提言が歴史学研究会で、西洋経済史研究者である吉岡昭彦さんによって提示されます。明治維新から100年近くを経過し、高成長を遂げつつある日本経済を前にして歴史研究者としても資本主義社会の分析を主題として、「産業革命期の研究へと研究の重点を移すべきだ」というわけです。歴史研究が現代的な問題関心からずれ始めているということなのですが、この背景には60年安保で左翼勢力が明示的なオルターナティブを出せないということへの反省などがあったように思います。現代的な関心に引きつけて研究を進めるためには資本主義の構造分析ができるような研究活動が求められたわけです。

 こうした提言を受けて、産業革命への研究へと歴史研究に関心が移されていくようになり、日本については大石さんを中心とした研究グループがアプローチの骨格を固めるような研究を発表していくことになります。紡績業や製糸業の研究が進められ、このほかにも応用経済の研究分野の研究者が財閥や恐慌の研究を発表していました。その結果、私は70年代前半に大学院に入りますが、その時期になると、新たにどんな研究をすればよいのか迷うほどの研究の蓄積が生まれました。


大石説の特徴と宇野理論

 議論をリードした大石さんの方法的な特徴は――これは大石さんがどのような問題を扱う時でも共通するものですが――それまでの論争の双方に目を配って統合的に継承しようと試みていることです。そのために講座派の山田盛太郎に代表される構造論的な捉え方と、労農派の考え方を継承して資本主義の発展を段階的に捉えようとする捉え方について、両者の長所をとってよりリアリティのある歴史認識として提示しようとしています。ただし、大石さんは基本的には講座派に近いスタンスをとった上でその限界を克服しようと議論を進めるという点では、研究者としての生涯を通して変わっていないと思います。この点は、このあとの社会科学研究所の共同研究において、戦後改革についての、いわゆる『連続説』と『断絶説』を統合しようと試みたことや、帝国主義史研究会の共同研究での研究の総括の仕方などでも貫かれていると思います。

 従って、大石さんの議論の一番大きなポイントは、山田盛太郎『日本資本主義分析』の議論をどう継承するかということにあり、その際にこれと対極にある大内力さんなどの宇野理論を基礎とする見解をどう取り入れるか、批判的に継承するかというになります。師弟関係から見るとねじれがあるのですが、つまり、大石さんは大内力ゼミの出身、その大内さんは大塚久雄ゼミの出身というわけですから、大内さんも、大石さんも自分の先生には批判的です。しかし、確実に強い影響を受けている面もあります。

第17回(1)1.大石嘉一郎の産業革命研究/産業革命期研究への関心/大石説の特徴と宇野理論
 (2)二部門定置説を再評価する/再生産論の具体化という方法/産業構造から経済構造へ、そして階級構造の分析
 (3)綿業中軸説の基礎としての宇野理論
 (4)質疑