日本経済史・経営史:研究者のひろば コラム

鈴木商店と横浜正金銀行

第2回 管理の不在

武田晴人

第2回(1)

銀行の持っていた情報

 前回紹介した神戸支店の書信(大正7年5月24日)には、次のような一文があります。

二、唯其関係事業ガ余リニ多岐デ、余リニ多クノ銀行ヲ利用セルコト、経営ガ金子直吉氏ノミニ依リ主宰セラレ、而モ何人ニモ其資産、負債ノ実情ヲ示サヌコトハ同店ニ十二分ノ信用ヲ与エ難イ処デアル。

 このように「資産、負債ノ実情ヲ示」すことが重視されていることは、当時の銀行が融資に際して、相手先の企業情報のどのような点に関心を払っていたかを知る上で重要な手掛かりになると思います。しかし、貸出に関する銀行側の態度は、かなり曖昧なものです。短期の担保が確実と思われている貿易為替取引であるとの事情があったという理由もありますが、横浜正金銀行が1000万円を超える融資実行に際して、鈴木商店の経営・財務状態についての情報を十分に得てはいないのです。「世評」、つまり世間に流布されている評判以上のことは知らなかったといってもよい状態でした。それが戦間期の銀行貸出の実態でした。おそらくこの文言からは、長期の貸出や信用取引であれば財務データを得ることが必要と考えられていたこと、それにもかかわらず正金銀行の場合には、そうした情報を得ていなかったことが資料をつきあわせると分かってきます。鈴木商店の貸借対照表を正金銀行が初めて見るのは、1923年のことです。

 正金銀行資料には、「得意先」に関する監査報告が大正後半期については残っています。そこでは取引先の財務状況などが部分的に報告されていますが、その場合も非上場の三井物産などの情報は簡略です。貸借対照表が提示されている「大得意先」もありますが、それらは上場企業です。しかも、その内容は直接取引相手から財務情報が提供されていたのではなく、新聞などの決算公告などからの情報ではなかったかと考えられるものなのです。こうした企業と金融機関の関係、あるいは金融機関が貸出に際して必要とした情報がどのようなものであったのかに関心をむけることは、銀行の貸出態度、審査などに関して歴史的な視点から検討する上で見逃せない論点となると思います。


金子直吉の持っていた情報

 もちろん、鈴木商店の側に提供するに足る情報が整備されていたかどうかも疑問があります。大連支店での信用取引の急増について、鈴木商店の金子直吉は、1918年8月末から正金銀行神戸支店を訪問して対応策を協議しています。9月に神戸支店に訪れたときに金子は「正金トノ間ノ信用取引ガ意外ニ大ナノニ驚イタ次第デ内部ノ取締上是非此問題ヲ解決シ度ク折角研究中デアル」と説明しています。神戸支店が金子から聞いた内容を正金銀行本店に知らせた来信によれば、正金銀行から信用限度設定の交渉を求められるまで、金子直吉は大連での取引実態、それが投機的に拡大し大きな損失を招いていることを把握していなかったのです。

 これに関連して興味深いのは、正金銀行大連支店長が鈴木商店大連支店西川支店長について、「少々遣リ過ギル方」であるが、「本店支配人ノ実弟デアル関係上監督ニ派遣サレテ居ル濱田氏モ意ニ任セヌ処」があると観察していたとの記録があることです。本店支配人の西川とは、西川文蔵のことでしょうから、その実弟が大連支店を主宰していたのです。そのため監督役として派遣していた濱田という人物も西川支店長に意見ができなかったということのようです。金子にしてみれば、信頼する西川文蔵の弟だから全幅の信頼を置き、細かな報告を求めなかったのではないかと思います。鈴木商店の経営は、こうした人的関係に信頼を置いていたと考えることができます。それは鈴木商店の各支店での取引に対する本店からの管理が不在で、丸投げ状態であったことも示唆しています。大胆にいえば、そうしたやり方が大連だけでなく、鈴木商店の多くの支店でも行われた可能性は高いということでしょうか。明治の半ばくらいまでであれば、三菱でも古河でも似たようなやり方が見出されていますけれど、鈴木商店は大正半ばになっても続けていたということになります。

 いずれにしても、鈴木商店本店の大連支店に対する監督は不十分で、本店による「管理は不在」だったようです。別の資料では、鈴木商店大連支店は、1916年には100万円の利益を計上する一方で、17年にはほぼ同額の損失を計上するなど浮沈の激しい経営状態にあったことが報告されています。こうした実態を把握して、正金銀行は鈴木本店との信用限度協定の協議が整うまで、大連支店に対して新規貸出停止を指示しています。


金子直吉と鈴木商店の「無理金融」

 1919年1月に正金銀行神戸支店から本店に届いた書信では、神戸支店を訪れた鈴木商店の金子が「本月末受取リ直ニ引渡スベキ汽船ガアル処時節柄造船所ハ竣工次第引渡ヲ急グノデ来ル十三日代金支払、月末迄一時立替ノ必要上是非二百万円許リノ資金入用ノ処目下所有手形中橋本喜造ノ分相当アルガ(主トシテ汽船売却代)、目下何レノ銀行デモ割引出来ヌノデ先般同人ヨリ数種ノ株券ヲ担保ニ提供サセテ居ルカラ可相成ハ四月初迄、都合ニ依ツテハ二月中割引ヲ願ヒ度」と申し出てきたことが報告されています。

 資料中に出てくる橋本喜蔵は第一次大戦期の「船成金」の一人です。鈴木商店が船舶関係の事業にかかわっていたことはよく知られていると思いますけれど、休戦反動後に海運・造船業は一転して船賃の大幅な低下などによって不振に直面していました。そのために橋本の手形も割引ができなかったのでしょう。連鎖して鈴木商店の資金繰りも苦しくなっていたことが分かります。

 神戸支店は、この金子の申し出を、担保額の評価や興信所の調査なども添えて本店に許可申請しました。この申し出に応ずるか否かを判断するために、本店は大連支店に取引の現状を2月初めに報告するように指示します。

 その結果、大連支店の融通高1200万円に対して、担保品は輸出入品通計で522万円に過ぎず700万円近い担保不足であったことが分かりました。しかも不足額のうち150万円は鈴木商店本店への貸し、残りは大豆豆粕による損失であり、「驚愕ノ次第」と打電してきたのです。追って大連支店から届いた書信では、鈴木商店大連支店長は「虚偽ノ棚卸表ヲ以テ我支配人ヲ瞞着シテ居タモノ」と説明されています。

 なぜ担保不足が起こるのかというと、理由は二つくらいあったようです。一つは投機的な取引の失敗による損失のため、借入金を返済できるだけの代金が取得できずに滞った場合です。それだけであれば単純な話かも知れませんが、この時期以降に鈴木商店との取引実態で判明するのは、鈴木商店による不適切な貿易手続きによるものです。具体的には、輸入された貨物を販売した代金を当該取引に関わる為替手形の決済に充当せずに、期日の迫っている他の手形の決済資金に流用するというものです。この結果、貿易の実態があり、代金が支払われているのに、為替銀行に対しては手形決済が行われず、担保貨物は既に売却済みで失われているために担保に欠損が生じるというものでした。当時、こうした遣り口がかなり横行していたようで、資料的には鈴木の「無理金融」というような表現で『台湾銀行史』などにも登場します。

 これでは正金銀行もうかうかしていられないでしょう。少し遅れますけれど、正金銀行はこうした現実を把握するにつれて、鈴木商店に対して信用貸しを徹底的に引き締めるとともに、貨物の保管などについての監視を強めることになりました。


「船舶ノ外ニ差入ルベキモノナシ」

 大連での担保不足の処理のため、正金銀行は金子と交渉し、不良化している貸付については正金神戸支店から鈴木商店への貸付の形式にして回収を図ります。その際に他の支店でも発生している不良貸しも神戸に集中し、一定の限度内で無担保の貸出状態を容認しつつ、できる限り有価証券などの担保を鈴木商店に対して新たに提供することを求めます。

 この交渉は、金子が上京して正金銀行本店で行われていますが、その時に金子は、「船舶ノ外ニ差入ルベキモノナシ」と説明しています。正金銀行は船舶抵当による融資という鈴木商店の提案を断りました。鈴木商店の金融状態はそれほどまで逼迫していたのです。よく知られているように、鈴木商店は傘下に多数の企業を抱える持株会社(事業持株会社)になっていましたから、傘下企業の株式が担保として活用できるはずですが、それすらもこの時の鈴木商店には余裕がなかったようです。他の銀行からの借入などに対する担保として差し入れられていたからではないかと推測されます。

 後のことですが、正金銀行の求めに応じて鈴木商店は株式を中心とする有価証券の担保を差し入れていくことになりますが、それらの市場価値は低く、担保としての評価は悲惨なものになっています。憶測ですが、この時期以降も鈴木商店は、直営事業などの分離による株式会社化を進めていますが、こうした分社化は、鈴木商店にとってみると、実物資産を株式に転換し、銀行からの資金調達に際して株式担保金融を受けやすくする意味を持ったのではないかと考えています。確証を得られているわけではありませんが。実物を抵当にするのは手続きが面倒だからです。


「打捨テ置被下度」

 正金銀行は金子の説明に対して、打開策を見出せませんでした。そのため、この金子との直接交渉に関する記録では、当面は「打捨テ置被下度」とされています。驚くべきことですが、放置するという決定が正金銀行の中で行われました。

 この曖昧な態度は、関東大震災後に本格的な整理回収が図られるまで、正金銀行の一貫した態度になっていたと思われます。その理由を示しているのが、次のような資料です。

 すなわち、本店総務部は、鈴木商店との取引について、「当行ハ各地ニ於テ飽迄従来ノ好関係ヲ持続シ置キ度希望ナレバコソ此際当方ノ便利而已ヲ主張セズ同社ノ内情ヲモ斟酌シテ種々画策シ同社ニ格別ノ不便ヲ与ヘサル範囲ニ於テ当行ノ所要ヲ達セント努力致居候次第」と神戸支店に対して、本店の方針を伝えています。

 大口との取引関係の維持が優先された判断をしていたことが分かります。鈴木商店の金融逼迫に対する認識としては甘い印象を受けるものだと思いますが、こうした方針は、「当時神戸支店は輸出為替偏重の傾向があつたから、輸入為替の巨額な鈴木商店との取引は看過すべく余りに大なる誘惑でもあつた」と資料⑤では説明されています。神戸支店の事情に配慮した正金銀行本店の判断ということでしょう。

第2回(1)