日本経済史・経営史:研究者のひろば コラム

鈴木商店と横浜正金銀行

第3回 1920年恐慌

武田晴人

第3回(1)

1920年恐慌時の鈴木商店

 第一次大戦後のブームが終わり、1920年3月に発生した1920年恐慌は、日本の企業経営に深刻な打撃を与えたことで知られています。古河商事など大戦期に新規参入した貿易業者の破綻だけでなく、三井物産や三菱商事なども無傷ではなかったことは、最近の鈴木邦夫さんや大島久幸さんなど商社史研究で明らかになっています。綿糸布市場の投機的取引の破綻の影響も深刻であり、日本銀行の救済融資などが財界の動揺を抑えるために実施されたことは、武田晴人「1920年恐慌と産業の組織化」(大河内暁男・武田晴人『企業者 活動と企業システム』東京大学出版会、1993年)などで書いたことがあります。

 このような激動のなかで、不思議なことに、横浜正金銀行から見る限り鈴木商店との取引は「表面は無難」であり、「此恐慌の直後本邦精糖会社の買付たる爪哇糖の大量を英米に転売した高は五月以後十月までに合計壹千壹百万磅にも上つて居り、猶一時同店の名で爪哇両店に無利息預金たる転売益は貳千貳百万盾にも上つて居つた、此の預金を担保として、内地で同店に融通した金額は千三百万円以上に及んだこともあつた」と報告されています。また「大連では満州小麦の大量を買付けて英国政府に売込んで此為替百六十万磅が神戸支店で取組まれたのも恐慌直後の五月から七月にかけてのことであつた」と報じられています。

 いずれも横浜正金銀行資料のうち「岸資料」としてまとめられている資料⑤に記述されているものです。これを確認できる文書は見つかっていませんが、少なくと鈴木商店との取引関係で1920年恐慌によって新たな問題が生じていたとは考えにくようです。それは、1920年7月に青島支店に対して信用限度超過の説明を求めた書信でも、「鈴木商店ハ今回ノ財界動揺ニ対シ格別ノ手傷ヲ受ケ居ラザル模様」との観測を伝えていることからも分かります。


三井物産の「反対商調」

 正金銀行の資料では限界があるので、ここでは他の資料を探してみました。三井文庫の所蔵する三井物産の「反対商調」です。1921年4月の「反対商調」によると、三井物産は鈴木商店について次のように記述しています。

欧州戦争休戦状態ニ移ルヤ反動的打撃約五千万円ト称セラレ銀行側モ警戒ノ眼ヲ以テ迎ヘ世上ノ憶説亦紛々タルモノアリシカ、講和条約調印後平和的活躍ヲ始メ一面諸物価ノ回復ニ向フト共ニ前記ノ大部分ヲ挽回シタリ、而モ戦後ノ好景気時代ニ於テモ幹部ハ休戦当時ノ苦キ経験ニ鑑ミ夙ニ消極的引締方針ニ出テ大正八年春大里製粉ノ売却ヲ断行シタルヲ始メ土地持株等ノ整理ヲ行フ等予メ恐慌ニ備フル所アリタリ、是ヲ以テ昨年四月ノ財界大変動ニ当リテモ損害額比較的少キヲ得タルカ如シ、(以下略す)

 三井物産の観測によれば、鈴木商店は休戦反動期の反省から戦後ブーム期に引締方針をとり「恐慌ニ備」えていたことになります。そのため恐慌期の損害が比較的僅少と見込まれていました。大連支店での失策に関連して、正金銀行から厳しく追及されたことが鈴木商店の経営方針に一定の影響を与えていた可能性もあるかもしれません。これが戦後ブーム期から1920年恐慌期の鈴木商店の状況です。


ジャワ糖の投機的取引

 そうした反面で1920年恐慌後に鈴木商店が活発な取引を継続していたことが判明します。それは1920年恐慌が日本で先行して発生し、海外の景気後退が始まるのが6月から7月頃であったことに関連していたと推測されます(武田晴人「恐慌」1920年代史研究会編『一九二〇年代の日本資本主義』東京大学出版会、1983年)。この景気後退のずれを利用して、鈴木商店はジャワ糖を大量に買い付け、まだ活況を持続していた欧米市場に転売して損失を回避し、それなりの利益を上げていたのです。この時期の砂糖取引については、日本銀行調査局「本邦財界動揺史」も報告しています。ですから、鈴木商店の三国間砂糖取引がそれなりの成功を収めたのは事実と考えることができます。前述の資料⑤の記述がこうして裏付けられます。ただ、こうした「成功」が、戦後ブーム期の「消極的な経営方針」から離れ、強気の国際取引の誘因となり、その後の鈴木商店のほころびを大きくした可能性もあったというべきかもしれません。


正金銀行の神戸支店検査

 このような状況を背景に、1921年11月に正金銀行では検査人による神戸支店の検査が行われています。この検査報告でも、鈴木商店の現状については「往時活躍時代ニハ莫大ナル利益ヲアケタルモ其後相当損失ヲ被リタルガ如シ。其上一昨年末頃ヨリ経済界ノ前途ニ弱気ヲ持シテ進ミシカバ昨年三月頃ハ他商社トチガヒ可ナリノ苦痛ヲ感シタルラシカリシモ尚方針ヲ固守シ遂ニ財界ノ大瓦落ニ際シ唯一ノ成功者タルヲ得、高値ノ手持品ハ瓦落ニ先チ一掃スルコトヲ得タル由」と恐慌の影響が軽微であったことを強調しています。また、1920年度について「直接事業ノ利益収入並ニ関係諸会社ノ利益配当」が4580万円であったとはいえ、「目下ニ於テモ方針トシテ消極主義ヲ採リ専ラ事業ノ守成ニツトムベシト云フ」と報じています(資料②)。

 検査報告では、これに次のような報告が続きます。「噂ニヨレバ台湾銀行ニ対シ巨額ノ借入金アリ其利足支払ト並ニ経費支払トニ少カラサル金ヲ要シ従来ハ関係会社ノ利益収入ヲ以テ之ヲ支弁シ余裕釈々積立金トナリシガ、近来之等会社ノ営業不振ノタメ収入減少シ即投資額固定ニ近ツキタルガ故金繰稍繁忙ナリト称セラルレドモ如上経費並ニ営業費ノ支払ヲ単ニ直接事業ニ求メントセバ余程大額ノ而モ利潤アル商売ヲセザル可カラサル」というのです。

 まず驚くのは、情報源が『噂』だということです。神戸支店という鈴木商店の本拠地に近く、主要な取引先として相対している支店に出掛けて検査した検査員が、鈴木商店の内情について確証を持つことができないままに、こうした報告をしているのですから、正金銀行神戸支店が正確な情報を持っていなかったことは間違いなさそうです。

 さて、その噂によれば、投資収益の減少のなかで経費が嵩み、台湾銀行からの借入が膨大な額に上っているなど資金的な困難に直面していたことになります。ところが、このような状況を認識しながら、検査役の判断は「[鈴木商店は]消極方針ヲ持シテ進ミ格別行詰レル様子モナキニ察スレバ結局切リ抜ケテ行クモノト思ハル」として、「昨今ノ不況ヲ斯クシテ切ヌケ得レバ一度景気回復ノ時ハ仝商店ハ将ニ財界ヲ風靡スルニ至ランカト噂サル」と、再び「噂」に基づいて「要スルニ仝店内情ハ案外ニ堅固ナルニ非ズヤト察セラル」と判定していたのです。

 もちろん、手放しでということではなかったようで、検査人は「当店ノ取引方針」に関しては、「周到ナル注意ヲ以テ鈴木商店ヲ導カントスル」ことを基本的な方針とすべきであり、それによって「自発的ニ警戒ノ途ヲ採ル様ニ仕向ケ」るという方針を堅持することを提案していました。しかし、そうした方針を提示しながらも、同時に「之レ以上取引ノ引締メ減縮ハ従来ノ関係モアリ出来カネ、又実際問題トシテモ現在ノ仝店営業ハ輸出入トモ堅実ニシテ且相当ノ利益アル而已ナレバ格別ノ心配ニモ当ラザルガ如シ」とまとめているのです。

 こうして本店総務部も検査役の判断も、これまで同様に警戒感をにじませながらも、積極的に鈴木商店から資金を引きあげ債権を整理縮小するまでには至りませんでした。

第3回(1)