日本経済史・経営史:研究者のひろば コラム

研究室の我楽多箱

第1回 研究室の埋蔵品

武田晴人

第1回(1)1.研究室の埋蔵品/2.古河家の伝記編纂資料

1.研究室の埋蔵品

 「都市鉱山」という言葉をご存じだろうか。廃棄物リサイクルの中で生まれた言葉だが、ゴミ堆積所だった夢の島のようなところに、稀少金属などが埋蔵されている、これを再開発して回収すれば、資源の有効利用になるということから生まれた言葉という。

 ゴミの堆積場ではないが、私の研究室も再開発されて有効利用されるべき資源、つまり史料がかなり残っている。2015年3月末で東京大学を退職することになり、そのために研究室を整理する必要が生じた。山積みの書籍や、書類などを片付けていくと、思わぬところから史料の断片が見つかったり、すっかり忘れていたフィルムやコピーが出できた。まるで自分の研究室が都市鉱山であるかのような思いに駆られた。

 もともと、史料調査に当たってはできるだけ幅広く資料を集めるようにしてきた。当面の研究関心に限定せずに、できるだけ広く史料を複写し、手元に残すように心掛けてきた。再び探しに行ったときに巡り会えるとは限らなかったからだが、その分だけ、直ぐには使わない史料が断片化されながら研究室の片隅に眠ることになった。資料は断片化しているものも多く、また資料的な価値という点でも評価が分かれそうなものもあるが、こうして見出された史資料との出会いの記憶などをたどりながら、資料アーカイブの意義なとも考えていきたい。

2.古河家の伝記編纂資料

 古河市兵衛、古河潤吉の二代にわたる伝記は、1920年代の半ばに編纂されている。この編纂の経緯は、『古河市兵衛翁伝』によれば、井上公二、小田川全之、昆田文次郎を中心に企図され、関東大震災前の1923年6月から資料の収集にあたり、1925年に刊行に至ったものとされる。

 この刊行に際してどのくらいの資料が収集されたのかを知ることはできないが、それを知る手がかりとなるのが、ここで取り上げる『初代翁拾遺』と題する資料群である。現在どこに保管されているのかを残念ながら知らないのだが、1970年代に古河鉱業株式会社、現在の古河機械金属株式会社が「創業100年史」の編纂事業を行っているとき、この編纂室に取り寄せられて保管されていた。当時の編纂室からは、古河市兵衛翁の書簡なども含めて創業初期の資料は、再編集されて帙に収められて保管されて来ていたもので、当時は第一勧業銀行の金庫に預けてあったと説明された記憶がある。

 この『初代翁拾遺』の序文には次のように資料の性格が説明されている。

五日會刊行古河市兵衛翁伝の編纂に當りて一篇の構成上

 一、古河家の私事に亙るもの

 二、餘りに内容の細目に亙るもの

 三、史實として興味あるも本傳と関係薄きもの

には乍遺憾記叙の筆を及ぼし得ざりしが、此等の史實は初代翁を偲ぶ上に於て頗る尊重す可きもの多きを想ひ、茲に輯録して初代翁傳拾遺と題し拾章拾篇を脱稿せり。

 此の拾遺に引用せる史料は、古河文書三十三巻、史料十七帙となし、一々解説を附して本篇の内容を補足する事とせり。

 本篇が五日會刊行本傳の記叙を補ひ、初代翁の風貌並びに古河家創統の事歴を幾分にても明悉するを得ば幸ひ也。

 昭和九年九月 茂野吉之助

 『初代翁拾遺』は全体で一〇巻、これが伝記編纂の副産物としてまとめられたことになるが、その根拠となっている資料がさらに「古河文書」「史料」などにまとめられていることになる。その紹介は次回に回して、取り急ぎ、全一〇巻のタイトルを示すと以下のようなものであった。

 第一章 家系

 第二章 翁の幼年時代と盛岡時代

 第三章 古川氏入家

 第四章 福島江戸時代

 第五章 小野組時代

 第六章 主家の瓦解

 第七章 独立創業

 第八章 創業時代の業績と金融

 第九章 足尾買山

 第十章 足尾鉱毒問題と明治三十年の予防工事

 各巻に各一章が割り当てられているが、市兵衛の生涯の中では、前半生に多くの頁をさいているように見える。ただし、市兵衛の伝記はかなり丁寧につくられており、ここに残されている『拾遺』の史料群から特別に新たな事実が発見できることはあまりなさそうである。もちろん改めて精査すれば何か出てくるかもしれないが、若く野心満々だった時代に見た史料に、それほど画期的な秘密が埋め込まれていたら、きっと何か書いたに違いないとも思う。過信かもしれないが、とりあえず若い時代に資料を読んで、すぐには使えないと判断したからこそ、今日まで研究室の我楽多箱に埋もれていたと考えている。

 細かなことだが、第三章のタイトルが「古河」ではなく「古川」となっているのは誤植ではなく、原史料のママである。もう少し丁寧に説明すると、市兵衛の姓については、「古河」との表記が定着しているが、同時代的には両方使われており、市兵衛が養子となった家は「古川」が通例の表記のようでもあったが、市兵衛が後年まで「古川」と自ら書くこともあって、こだわっていないようであった。

第1回(1)1.研究室の埋蔵品/2.古河家の伝記編纂資料