日本経済史・経営史:研究者のひろば コラム

研究室の我楽多箱

第2回 古河市兵衛翁伝の編纂資料

武田晴人

第2回(1)1.古河文書全三三巻/2.ミニコピーフィルム

1.古河文書全三三巻

 前回紹介した『初代翁拾遺』に用いられた資料は、古河文書三三巻と史料一七帙にまとめられている。このうち前者については、次のように説明されている。

 古河文書三十三巻は初代翁伝記編纂に當り蒐集引用せし資料にして其大部分は瀬戸物町本店に蔵せられしもの也。右文書は明治三十年以後瀬戸物町より丸の内事務所に移され(其の間矢の倉鈴木家に一度移されし事ありと聴く)更に西ヶ原邸に移管され、転々流移の間に散佚の虞れに瀕し、殊に大正十二年大震災の時一部は雨露に暴されしことありしも、翌十三年伝記編纂の議起り、資料整理の必要に迫られし為め幸ひにして保存の全きを得たり。

 今全資料を三十三巻に整理分類して、これを古河文書と名づけ、各巻毎に解説を附し、別冊本傳拾遺と併せ、古河家総統の顛末を明かにすることとせり。猶、資料中これを一巻に収め難き簿冊の類は別に帙に収めて保存せり。

      昭和九年九月                  茂野吉之助

 古河文書三三巻の内容は、以下の通り。

 第1~6巻 大照院遺墨 其1~其6

 第7巻 大照院の住居

 第8巻 江州古川氏文書

 第9巻 小野組糸店在勤時代

 第10巻 相馬家依頼状

 第11巻 小野組糸店の鑛業

 第12巻 小野組の瓦解

 第13巻 明治八年の阿仁院内稼行請願

 第14巻 草倉銅山引継ぎ

 第15巻 草倉銅山創業

 第16巻 幸生銅山創業

 第17巻 赤芝・本山・八総・九十郎畑、

      軽井沢銀山

 第18巻 創業時代の生糸種紙取引

 第19巻 足尾銅山買約

 第20巻 足尾銅山引継ぎの紛糾

 第21巻 足尾銅山創業

 第22巻 足尾銅山組合稼行の協約

 第23巻 明治16年足尾銅山特約書原稿

 第24巻 足尾銅山予防工事

 第25巻 本所鎔銅所

 第26巻 金融

 第27巻 大秀院文書

 第28巻 陸奥宗光伯遺墨

 第29巻 子爵渋沢栄一翁書簡

 第30巻 普照院及普照院遺墨

 第31巻 木村長七翁書簡

 第32巻 横川家系譜

 第33巻 諸家筆影 附略伝

また、史料17帙の内容については、手元に総てが残っていないのだが、古河鉱業創業100年史編纂室が1971年に作成した資料目録によると、以下のようなタイトルが記録されている。このうち、手元に史料の複写があり、内容が確認できるのは、12、14、16の三点だけである。

第1帙 京都木村家の記録帳

第2帙 江州古川氏文書

第3帙 明治9年初代翁の文通控及金銭出入帳の抜粋

第4帙 木村長七手記「日嘉恵」其他

第5帙 瀬戸物町時代の記録

第6帙 初代翁追想録及木村長七翁直話

第7帙 初代翁の叙位と元服

第8帙 大秀院遺芳

第9帙 普照院遺墨

第10帙 瀬戸物町時代の小遣帳其他

第11帙 第一銀行通帳

第12帙 ジャーディン、マヂソン商会との賣銅契約

第13帙 鉱毒問題資料

第14帙 小野組興廃に関する史料

第15帙 相馬家の小野組預け金書類

第16帙 年賦金償却利子拂其他

第17帙 三翁史傳 史料17帙目次

2.ミニコピーフィルム

 手元に残っているのは、史料をミニコピーフィルムで撮影したもの。私が研究をスタートした40年ほど前には、史料収集の主たる手段は、マイクロフィルムなどによる写真撮影だった。ゼロックスのコピーは利用できるところが限られていて、しかも1枚40円もした。

 写真撮影は、通常のカメラと高感度のフィルムを用いたが、史料撮影用のフィルムを私たちはミニコピーフィルムと呼んでいた。通常のフィルムと同じで36枚撮りの長さで、私はこれをハーフサイズが撮影できるカメラを使って1本のフイルムで72枚撮影していた。倍の枚数が撮影できることから、その分だけ資料収集費用が節約できたのだが、サイズが半分なことから帳簿などの小さな数字などが判鈍しにくくなるなどの問題点があった。それでも金のない大学院生には、2倍とれることの方が優先した。これでフィルム代、現像代を合わせて1枚あたり20円を切ることができたと記憶している。

 撮影用のマイクロフィルムには、専用の100フィート・フィルムもあり、これが使える機材を一橋大学が保有していた。一橋には撮影機材だけでなく現像設備もあり、この点では東大は一歩も二歩も立ち後れていた。後日、同様の機材が東大にも入り、調査で使えるようになったが、それは1980年代に入ってからのことだった。だから私が研究者としてスタートを切ったときには小型カメラが主だった。

 このやり方は、筆写しなければならなかった時代に比べれば随分と調査が楽になったと言われた。しかし、デジタルカメラが使える今日に比べると格段と条件が悪かった。なによりも使用するフィルムはモノクロの世界であり、カラーは使えなかった。色が使えないと絵図などはもちろん、帳簿類でも「赤字」で書かれているところが判別しにくくなるなどの問題があった。第二に撮影枚数が限られること。ハーフサイズで撮影しても1本でとれる枚数は少なく、大ぶりの綴りなどは何本ものフィルムを必要とした。デジタルカメラがカード媒体の交換も無しに1000枚単位でとれることは夢のような話なのである。そして第三に重大な問題だったのが、フイルムは現像という後工程が必要なことであった。今のようにその場で撮影状態が確認できないから、いつも撮影して帰ってから、業者に現像に出して戻ってくるまでは、きちっと資料が収集できたかどうか確認できない。撮影のミスかあった場合には、取り返しのつかないことになることも多かった。そう何度も出掛けられないからであった。

 そのために生じたいろいろな失敗は、保管されているフィルムにその痕跡がたくさん残っている。シャッターのタイミングが悪く、史料の頁をめくる手が史料の真上に残って史料が読めなくなっているもの、ピンぼけ、撮影条件の設定ミス等々である。

 そんな状態のために手元資料はあまり人に見せられるものではないのだが、いずれは何らかの形で公開を求められるだろう。ただし、それより先にオリジナルの資料を探す必要があろう。40年前に間違いなく、当時古河総合ビルと呼ばれた建物の9階の1室に保管されており、社史の編纂事業終了後にどこかに移管し保存されたはずである。足尾銅山に返却されて残っているものを別にして、社史編纂室所蔵資料の大半が現在では所在不明であることを考えると、なんとしてもこれらの資料だけは探し出したいと思うのだが、この夢が叶うかどうかはわからない。

第2回(1)1.古河文書全三三巻/2.ミニコピーフィルム