第5回 | (1) | 1.小坂という町/2.現地調査の費用/3.残っていた史料 |
同和鉱業・藤田組に関する史料調査では、本社での社史編纂資料だけではなく、小坂鉱山の現地調査も行うことができた。社史の史料から伺う限り現地に小坂鉱山の経営史料が残っている可能性があったことから、私の希望を認めて便宜を図ってもらうことができた。同和鉱業本社からの手配で、小坂事業所ではお客様としてのもてなしを受けた。鉱山の現地調査は、山間僻地に所在することが多くアプローチ(東京からの移動)に時間がかかること、宿泊など施設を探すのが難しいことなど苦労するのだが、この小坂の現地の調査では、会社の宿泊施設が利用でき、食事も用意されるという破格の厚遇ぶりだった。
藤田組の時代の主要生産拠点であった小坂鉱山は、秋田県鹿角郡にある。当時は奥羽線の大館から迎えの車で移動した記憶があるが、大館市から小坂までは20㎞ほどの山道になる。現在は高速道路(東北道)が間近を通り抜け、小坂インターチェンジがある。大館が近いということから想像できる人もいるだろうが、青森県との県境に近く、地理的には十和田湖と背中合わせの位置になる。
交通の便が高速道の開通で格段に改善されたことから、現在では旧鉱山町を観光資源とした開発が進んでいる。町のホームページ(http://www.town.kosaka.akita.jp/kanko/)からこの状態を垣間見ることができる。芝居小屋などの施設が復元されていたり、建設当時の施設が保存されたりする。そのなかでも一見の価値があるのは、小坂鉱山事務所であろう。1905(明治38)年に建設されたもので、1997年まで現役の事務所として利用されていた。
私が調査に行った時にもこの事務所は使われており、玄関ホールのらせん階段が強く印象に残っている。2002年にこの事務所は、国の重要文化財に指定されたという。これらの写真は上記の小坂町のホームページから見ることができる。
現地調査は、残っている記録によると1979年11月と80年7月の2回にわたって行われた。撮影されたフィルムが、100フィートもので79年に10本、80年に7本であった。これは、撮影機材として、当時東京大学経済学部の文書室に備えられるようになっていたマイクロフィルム撮影機材(平河製)を持っていっての撮影だったからで、その意味では普通のカメラで撮影した古河の資料とはだいぶ条件が違う。私の同世代なら誰でも知っている25キロ前後ある重たい機材で、中型のスーツケース一箱。20歳台の院生でも重いので、キャスター付きのキャリアを買って持っていった。重装備になるが。この方が長尺のフィルムで撮影できるし、専用機であるだけに失敗が少ないという利点があった。
いずれも東北本線・奥羽本線の夜行列車あけぼのに乗って十和田南経由で小坂に向かい、翌日の昼前に現地に入っている。当日から2日か3日かけて史料調査を行い、必要と考えられた資料の写真撮影をしている。また、79年11月の時には、小坂事務所の案内で深沢坑の坑内見学、塙事業所の事務所などの見学も行っている。80年7月の時には、帰路秋田市に回り県庁文書の調査なども行っている。
国鉄の乗車券が片道6100円、特急券が6300円、持っていったフィルムは1本2250円だった。700枚程度が1本で撮影できたから、フィルム原価は1枚3円程度だった。これに1本あたり現像代4000円程度が必要だったので、10円を少し切るぐらいの費用が1頁分の史料の複写には必要だった。リーダープリンターは一般的には利用できる状況にはなく、研究者はフィルムをリーダーの画面に映し出して、これを読み取りメモを作る、表を作るというような作業が必要であった。ゼロックスのような複写は移動しての調査では使いにくかったし何よりも高かった。当時東京ではゼロックスコピーが一枚平均40円で、京都大学の周辺で1980年代に国産の電子複写機を使った10円コピーが出現していたが、それが首都圏にまで及ぶのは、それから数年以上かかった。フィルム撮影は、当時としては利用可能で相対的に安上がりの収集方法だった。フィルム関係の費用のほか、このケースでは、交通費は必要だったが、宿泊費が同和鉱業の好意で必要がなかったという事情があるから、調査費用はそれほど多くはない。
撮影された小坂鉱山の資料はマイクロフィルム17本分が残っている。記憶をたどると、史料は先ほどの事務所にではなく、近くの小屋のような物置に置かれていた。メモには「農場」と書いているから、現地ではそのようによばれていた施設内の納屋が史料保管庫であった。40平米くらいだったかと記憶しているが、平屋のすきま風が通り抜けるような茅屋だったが、そこに雑然と棚に並んで史料が残っていただけだった。少なくとも、史料を整然と保管できるような仕組みはなく、偶然的に捨てられずに残った史料が、開いた建物の棚に並んでいるという状況であったということであろう。
本社でも社史編纂資料以上の整理はなかったし、それまでに調査したことのあるいくつかの企業でも似たようなものだったから、別段驚きもしなかった。地方の事業所の方が、都心部の本社に比べればスペース的に余裕があるから、史料は捨てられないで残る可能性がある。そのことが小坂の現地調査でも確認できたということになる。
推測になるが、これには小坂鉱山の歴史が関係しているかもしれない。小坂は1900年代には日本を代表する銅山に発展するが、その後は鉱源が枯渇して近隣の花岡銅山などから買鉱精錬所となった。藤田組の最大の中核的な生産拠点として各地の情報が集まる位置にたっていたが、それらの資料が事務所の建屋からあふれて付属「農場」の納屋に移されていた。ちなみに鉱山に付属する農場は、おそらく煙害が激しかった小坂製錬所が被害状況を把握するために設置した試験農場ではなかったかと考えられる。その後、小坂鉱山は、1950年代に新鉱床が発見されて再開発が進むことになったが、その活況の中で、すでに過去の出来事となった煙害に対応する試験農場も放置され、その納屋の資料を誰も片付けもしなかった。そんな幸運が資料の残存につながったのではないかと思う。
それはともかく、残っている史料は、雑然としていた。そして限られた時間内に必要と思われる史料を蒐集するために、この調査はかなりいい加減なものとなった。順番に棚の資料を確認しながら撮影の優先順位をつけて史料の撮影を行ったが、今となっては悔いが残るのは、撮影しなかった史料のリストを作らなかったことである。そのために当時残っていた史料の全容が分からない。もっとも分かったとしても、現在残っているかは分からないから、また目録だけの史料になったかも知れないのだけれども・・・
さて、主な史料は以下の通り。
1.事業景況報告 明治23~30年
2.課長会議決議録 明治34年1月~大正11年12月
3.技師会関係書類 大正1~3年
4.各課事務協議会書類 大正3~14年
5.統計表(統計書類)綴 明治30年~42年
6.鉱夫に関する書類 大正8~15年
7.事業月報 明治42年~43年、大正15年~昭和6年
8.本店発信簿 明治42~大正7年
9.雑誌『鉱業』昭和2~12年
10. 鉱業概覧 明治36年
11. 本邦銅統計表 昭和8~13年
12.雑件書類 明治38~昭和6年
13. 他方発信簿 明治39~昭和2年
14. 回議綴 明治32~36年
15. 鉱業簿 大正4~昭和4年
など
これらのいくつかは、1950年当時の同和鉱業社史編纂室が蒐集したものと重なっている。現地調査では、その重複をいちいち確認できなかったので、とりあえず選択した綴りを綴り単位で撮影した。ただし、各綴りについて詳細な目録も作らなかったから、今はただ何番目のフィルムにどの綴りを撮影したかという程度の目録しか残っていない。つまり、この史料は、蒐集したものの未整理の状態で35年以上もの間、私の研究室の我楽多として放置されてきた。このフィルムのデータをデジタル転換し、できるだけ早い時期に、詳細の目録を作る作業を作って御報告したいと考えているので、乞うご期待、続編。
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