第6回 | (1) |
第1回から第3回にかけて紹介した古河家伝記編纂に際して収集整理されたと推測される資料群の中に、明治中期までの会計帳簿がある。これらの原本の所在は確認できていないが、そのゼロックスのコピーが手元に残っている。古河鉱業社史編纂室の目録に記載されていたのは、本店会計帳簿と各山決算書の2系列あり、それぞれ14帙と25帙にまとめられていた。本店会計帳簿は、年次別に第1帙が甲乙2つに分かれて明治9~12年の帳簿を収めており、第2帙から第14帙までは明治11年から23年の年別のまとまりとなっている。
目録を手掛かりに本店関係の帳簿をタイトル別に全容を示すと次のようになる。
1.金銭差引帳 明治9~23年(10年欠) 14冊
2.金銭出納帳(簿) 明治9~12年合本、明治11~23年 14冊
3.金銭仮出納帳 明治18年 1冊
4.糸方差引帳 明治9年 1冊
5.生糸荒銅金銭差引帳 明治9~10年 1冊
6.生糸荒銅入荷及売消 明治9~10年 1冊
7.草倉幸生差引帳 明治9~10年 1冊
8.当座差引帳 明治9年 1冊
9.諸鉱山金銭差引帳 明治11~23年 但し明治16,23年は2分冊 15冊
10.諸物入荷及売消 明治11~21年 11冊
11.諸鉱山経費売代差引簿 明治11~23年 13冊
12.足尾銅山金銭出納簿 明治14~21年 8冊
13.足尾銅山金銭勘定帳 明治13~19、21年 8冊
14.軽井沢銀山金銭勘定帳 明治13~20年 8冊
15.本所鎔銅所金銭勘定帳 明治17~20年 4冊
16.諸鉱山(東京小払・倉庫利益)差引帳 明治21~22年 2冊
小野組破綻後の古河市兵衛が草倉鉱山から足尾銅山へと鉱山事業に進出する過程で、生糸取引など小野組時代の経験を活かした事業を試みていたことは伝記などの記載からも知られている。会計帳簿はその記録を残しているが、短期間に鉱山業へと収斂したこともここから明らかであろう。
「金銭出納帳」のうち明治9~12年の合本(「金銭出納簿」)はいわゆる大福帳の形態を持つものであるが、その他はB4判型よりやや大きい罫紙9行2面を折って綴じたものである。手元に残っているのが既述のようにゼロックスコピーであるため、墨の濃淡が出にくいこと、朱書きなどが判別しにくいなどの制約のあるものである。この出納帳は基本的には月日別に出入金を記録した元帳である。
これに対して、「金銭差引帳」は、明治12年を例にとると「諸方預」「諸方貸」「第一国立銀行」「利息並諸印紙費」「鉱山用費」「交際並諸費」「諸方付込」「同二番口」などの費目、草倉や足尾などの各鉱山の「立替口」、「古河」「浅野」「瀬戸物町普請金」などに整理されて記帳されている。古河や浅野に対する支出も記帳されており、それらは「勝手口」や「直渡」などの支出内容の明記のないものであったから、家計と事業とが判然とは分離されていなかったと考えられる。
「諸物入荷及売消」は、鉱山ごとに生産物が東京本店に送付された記録であり、売却の記録を対照させてまとめてある。記帳は生産物数量で行われている。この物量の記録に対応して「諸鉱山経費売代差引簿」は、経費の鉱山への送金と製品の売却の記録を金額ベースで対比して月ごとの差引を計算するものであった。おそらく足尾銅山の出納帳と勘定帳が13~14年から別に綴られているのは、その金銭の出入り等が多くなったためではないかと思われる。もっともこれらの会計帳簿の相互関係は、詳細な分析によってしか明らかにはならないだろう。
これに対して、各山決算書は、年次ごとに帙にまとめられて収蔵されていたもので、主要鉱山別に収録数を示すと表の通りである。
本店会計帳簿が明治23年までであるのに対して、各山決算書は10年ほど後の時期にまで及んでいる。もっとも、ここで対象としている伝記編纂に伴って整理された会計帳簿とは別に、古河鉱業百年史編纂室の目録には、「本店会計帳簿」として明治30年から大正4年にかけて一部欠落があるものの所蔵が記載されているから、本店の会計記録が失われたというわけではないようである。
これに対して、各山決算書は、内容を概観する限り鉱山側の会計記録であったと考えられる。基本的には月次の報告であり、年次によっては半期ないしは年の集計値が添えられていることもある。この資料のあり方から見ると、鉱山記録のとりまとめは月単位であり、必要に応じて半年、一年単位の集計をまとめたと考えてよい。
鉱山ごとの移動はあるが、足尾銅山を例にとると、決算書は通常の会計帳簿とは異なり、物量に関する記録と資金の収支に関する記録との2つが含まれている。すなわち「金銭出納」については、資本金之部として本店からの資金供給側が記帳されているのに対して、臨時払之部の支払いのほか、月次の支出金額を経費ごとに計上した支出を書き上げ、その差引を所有之部としてその内訳を記している。
他方で物量に関する記録は、鉱石から選鉱、製錬の工程ごとの処理数量と中間品の残量などが計算される構成になっている。この工程ごと中間品の残量は、換算方法は現時点では不明であるが、金銭出納の所有之部に計上される中間品の評価額の基礎となっているものと考えられる。
いずれにしても各山の決算と称する帳簿は、このようにカネの動きとモノの動きとをそれぞれ独立に記録している。一連の各山決算書は、表のように明治31年から各年3冊作成されているのは、この年から決算書類が金銭出納については半期ごとに綴られた帳簿となるとともに、鉱石の受け払いなどのモノの動きは「鉱物計算書」という帳簿にまとめられるようになったからである。正確には30年上期については足尾・阿仁・院内・草倉・不老倉5鉱山の鉱物計算書を合冊した帳簿があったが、分離の形式が整うのは31年以後のことのようである。
古河では、明治29年の鉱毒予防工事に関連して、市兵衛の養子潤吉による会計組織の改革が実施されたことが知られているが、この改革と上記のような帳簿の分離が関連しているかどうかはつまびらかではない。
その点は別にして、カネとモノの記録が決算書としてまとめられていることは、古河だけの特徴ではない。三菱関係の鉱山の記録では、本店の各鉱山決算書が基本的には金額ベースの収支と資産残高の記録であるのに対して、鉱山ごとの「事業成績報告」は「鉱物受払及残鉱物代価予算明細表」「概算損益勘定表」「鉱物原価取調表」「営業勘定明細表」の4表からなり、受払表は鉱物の出入り、原価取調はモノとカネとの対照による原価調べなどであり、ここでもモノの出入りの記録が重要な柱となっている。この三菱の会計記録は、各工程の中間品の残高についての評価額が計算されているという点で、カネとモノとの動きの連動性が明確であるが、古河のそれはややプリミティブな記帳のされ方と言うことになるが、たとえばモノの記録から採鉱過程での産出量が示され、カネの記録から採鉱の費用が分かることから見れば、産出量単位あたりの費用(原価)が確認できるように作られていた。
会計史の知識が十分ではないので、こうした会計記録のあり方をどのように評価すべきかについては留保せざるをえない。しかし、カネ勘定だけの帳簿ではなく、モノベースの動きが分かり、そこから原価が明らかにされるとともに、たとえばどれだけの燃料が必要になったのかというような原単位も知ることができる帳簿が作られていたことの意味は小さくないように思う。そうしたデータを毎月作成しその変化を知ることのできる鉱山経営の現場では原価や原単位に注意を払っていたということではないだろうか。もともと、各鉱山の産出物は本店に送られた現物がいくらで売られるかは事後的にしか判明しないから、各鉱山の経営の責任を負う人たちにとっては、月ごとの収益を基準に自らの経営の当否を知ることはできない。そうした制約もあって、どれだけの原料からどれだけの生産物が作られたのか、その物的な生産性は改善されたかどうかは、事業成果を直接知ることのできる重要な指標ではなかったのか、と想像するからである。
本格的な分析が必要であることは間違いないが、資料を眺めながら、その計算結果よりも、計算のされ方、帳簿組織の考え方の方にこそ面白みがあるように感じるのは私だけかもしれない。
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