日本経済史・経営史:研究者のひろば コラム

研究室の我楽多箱

第7回 幻の「日本産銅組合資料綴」

武田晴人

第7回(1)

 古河鉱業百年史編纂の手伝いをしていた大学院生の頃、私の関心は産銅業の歴史的な変化を追うことであり、この編纂室の資料は宝の山であった。そうした中から、産銅カルテルであった水曜会の資料に出会い、三井文庫論叢に論文を書くことになった。

 この論文は、古河鉱業が保管していた水曜会の議事録を見ることができたことによって、それまでブラックボックスのように扱われていたカルテル内部での利害調整が明らかにできるようになった点で、独占研究の方法に新たな視点を付け加えるものであった。ただ、古河鉱業に保管されていた資料は十分なものではなかった。

 その一つは、水曜会の設立に先行して1920年恐慌期に結成された日本産銅組合の関係資料が見つからなかったことである。この組合については日本銀行の調査や同時代の記録には断片的な記事があり、銅輸入関税の引き上げに努めたことや1920年恐慌期の滞貨累積に対する融資を受けて滞貨処分に当たったことなどが主要な役割であったことは知られていたが、詳しい実態は不明であった。

 カルテル活動の起点になる組織であるだけに是非とも資料的な裏付けがほしかったのだが見つからなかった。とりわけ残念なのは、古河鉱業百年史編纂室の資料目録には「日本産銅組合資料綴」という資料が記載されていたにもかかわらず、理由は明らかではないが編纂室の書棚には配架されていなかった。この目録は、担当者が編纂室に持ち込まれた資料を整理してリスト化したものであったから、少なくともこのような名称の資料綴が編纂室に持ち込まれたことは間違いなさそうなのだが、いくら探しても見つからなかった。これに後続する水曜会議事録とともに、当時の古河ビル地下の倉庫から持ち出されたことは分かっていたので、機会を得て地下倉庫に入ったときに探してみたが、やはり確認はできなかった。

 この資料制約に直面して、古河所蔵の水曜会議事録の分析を進めるのに躊躇していた時に、同じ古河百年史資料の中に三菱金属(現三菱マテリアル)に勤務していた松平博氏がまとめた『わが国銅産業史に関する小論集』1971年があることに気がついた。その中に「水曜会小史」という小論が見つかったことから、ダメもとで三菱金属につてをたどって水曜会の資料がないかどうかを聞いてみることにした。古河に残っていたのだから他社にもあるかもしれないということに加えて、「水曜会小史」には詳しい記録がなければ書けないのではないかと考えられる記述が散見されたから、松平氏は水曜会議事録を見たのではないか推測したからであった。

 資料照会の返事はすぐには届かなかったが、半年位してあきらめかけた頃に、大阪で資料を見せられる準備が整ったとの連絡があった。場所は三菱鉱山事業の中核事業所の一つであった大阪製錬所であった。後で気がついたことだが、同社は資料の所在を確認した後に外部に見せることができるように資料の綴り・製本を修理するなどの措置をとったようであった。半年近く返事が届かなかったのは、そのためのようであった。見せていただいた資料は、長く倉庫に放置されていたと考えるには不自然なほどにきれいに製本されていたからである。

 この大阪の調査は、三菱の金属鉱業を分析する資料を発掘するという点でも大きな前進になった。大正8年から10年、13年から昭和10年までの『三菱鉱業月報』という資料などがあわせて見出すことができたからである。大きな収穫であり、後に三菱史料館の兼務研究員になって論文を執筆する際にも利用できるような資料群を閲覧複写できた。しかも当初の目的であったカルテル関係の資料については、水曜会の議事録については古河鉱業が保管していたものを補うかたちで見つかっただけでなく、鉱石会の議事録や水曜会が戦時統制によって日本産銅統制組合に改組された時期までの議事録なども、多少の欠落は残ったものの、かなりの期間について揃えることができるようになった。しかし、探していた日本産銅組合の資料はそこには含まれていなかった。

 実は見つからないのはある意味では当然のことであった。というのは、日本産銅組合が活動していた1920年には三菱鉱業の銅の販売権は、三菱商事に委託されていたことから、産銅組合のメンバーになったのは三菱商事だったからである。言い換えれば、日本産銅組合資料を探すという目的に即して考えれば、見当違いを探したことになる。それ故、三菱金属大阪製錬所に残っていた資料は、日本産銅組合だけでなく、三菱鉱業が三菱商事から販売権を回収する1924年までの議事録も含まないものであった。

 さて、こうして収集された産銅カルテル関係の資料は、『水曜会議事録』『鉱石会議事録』『二四木会議事録』の3つの系列がある。水曜会議事録は、古河でも三菱でも会議が東京と大阪でそれぞれ開催されていたことから、綴りのタイトルでは「大阪水曜会」とか「東京水曜会」という形でまとめられていた。年次によっては両者が一つに綴られている場合もあった。会議の名称は例会を水曜日とすることからつけられたといわれているが、会議録をつぶさに見る限り水曜日にこだわらずに他の曜日に開催される例もあった。これには日程調整上の理由もあったであろうが、東京の会議における議論を踏まえて大阪で協議する必要のある場合も、あるいはその逆のケースもあったからであろう。また、東西連合会議も開かれており、重要案件はこのような形式の会議で決まるのが通例であった。

 議事録というタイトル通り、この資料には会議のメンバーの発言の要旨が速記録に近い形で記録されている。それだけでなく、この資料がカルテル活動の実態を知る上で重要なのは、水曜会メンバーがそれぞれの取引相手との販売成約について、その相手、成約日、数量、価格などを報告することが義務づけられており、その報告があわせて綴られているからである。つまり、この資料は、さまざま争点について、会議においてメンバーがどのような利害状況にあって何を主張したのかということが明らかにできるだけでなく、そうした争点が生み出されている市場での取引の実態についての、通常では得ることのできない詳細な情報が含まれている。研究者としてはこんな資料にであってまともな論文が書けなければ廃業する以外にはなさそうな良質の資料なのである。もっとも、私自身はこの資料を使ったカルテル活動に対する分析を完結させていないという宿題を抱えている。この宿題だけは早急に果たさなければならない。

 鉱石会議事録、二四木会議事録も同様の資料であるが、第二第四木曜日を定例とする二四木会も月二回の開催は守られているが、木曜日に固定されているわけではないようである。ただし、この二四木会議事録は速記録的な性格が希薄で情報の量はそれほど多くはないという制約がある。これに対して鉱石会議事録は硫化鉱販売に関するカルテル協定に関わる記録が詳細に綴り込まれている。ただし、硫化鉱取引は原則的にはスポット的な売買ではなく、期間を決めた供給契約であることが一般的であったから、取引の実態を示すデータは、今年の前半期には、A鉱山の硫化鉱がB肥料製造所に硫黄代いくらで、どれだけの数量供給される、というような形で提示されているところが異なっている。同じような時代に似たような業種で、似たようなカルテル活動が行われていたとしても、記録の形式はこのような形で組織の活動の差異を明確に残すということであろう。

 おそらく独占禁止法が制定された第二次大戦後であれば、このような記録は作成されないだろう。共同行為が合法であった時代であることをこの資料そのものが明瞭に示しており、関係当事者たちは正確な記録を残し、それによって情報を共有することによって必要な調整が行われる基盤になると考えていたと思われる。資料のあり方が、その時代の産業を取り囲む制度的な条件や企業行動の視野を知る手掛かりを示しているのである。

 なお、以上の記述は武田研究室にコピーなどの形で残っている資料に基づいているが、言及した資料のうち、私が蒐集した三菱金属に残っていた資料は、現在では三菱史料館に収蔵されており、許可を得ることができれば参照することはできる。

第7回(1)