第9回 | (1) |
第8回でふれたジャパンデジタルアーカイブによる通商産業政策史の資料公開は、いずれは戦後の政策史資料にも拡張されることが計画されている。商工政策史編纂資料にも戦後初期の資料が編纂室の収集作業によってかなり含まれているが、それだけでなく、1980年代に始まった通商産業政策史編纂事業によって収集された資料群が、戦後の資料では主役となる。
当時設けられた政策史資料保管のための書庫では、最終的に法令にまとめ上げられる過程で作成される文書――法令審査関係の資料と呼んでいたと記憶している――、各年度に予算要求に向けて作成される「新政策」に関する文書などのほか、必ずしも系統的ではないが、特定の政策課題に関する綴りや審議会などの資料が含まれていた。
曖昧な表現になっているのは、研究室の我楽多箱には、この時にみることのできた資料は一切残っていないからである。正式の政策史の編纂に関わることになって資料に対するアクセスは認められたが、それを個人の研究に用いることは制限されていた。そのうえ、執筆に利用するために複写した資料についても、編纂事業の終了後にはすべて返却することが執筆契約の条件だったから、編纂委員としてこの契約に違背するわけにはいかなかったからである。
他方で、通産省は編纂事業に全面的に協力するために、省議で資料収集に協力することを決定していた。この省議決定に沿って、実際に編纂が始まると、特定のテーマについての資料を場合によっては、各局各課の書棚にまで見に行って資料として提供することもあった。もっとも、産業政策局内に置かれた編纂室の室員とともに原局原課を訪問して史料を探索しようとすると、しばしば現場の強い抵抗に遭ったことも事実で、省議決定もそこまで徹底して周知されていたわけではなかった。こうしたやりとりの中で、資料書庫にはいくつか現用ではないために原局原課から提供を受けることができた資料も集まった。また、現用文書を廃棄するに当たって、編纂に必要かどうかの照会があったことがきっかけで集まったものもある。このような事情から、特定のレベル以上の重要な資料・文書が系統的に残されたわけでなく、編纂事業に携わる執筆者の関心や熱意、各現場の担当者の編纂事業に対する認識などに依存して、偶発的に資料が保管されたというべきものであった。これが通産政策史編纂資料の原型となった。
この資料には戦後の通商産業政策を研究するうえで重要な意味を持つ資料がいくつも含まれている。1950年代前半の産業合理化審議会に関する資料、60年代初めにかけての独占禁止法改正関係の資料、60年代前半の特定産業振興臨時措置法関係の資料などは、編纂事業に携わりながらも、こっそり読んでみたいと思った資料だった。改めて紹介する必要もないが、企業合理化法に基づく産業合理化措置の具体的な展開を支えたのが産業合理化審議会であった。また、原始独禁法の改正が占領終了とともに実現した後も、通産省や経済界は独占禁止法によるカルテル規制を緩和するような法改正にこだわり続けていた。それが岸内閣期の独占禁止法改正問題懇談会に集約されて議論されることになるが、そこに持ち込まれる通産省の主張やその根拠がこの資料にはあふれているはずと考えられた。特定産業振興臨時措置法は、城山三郎の小説『官僚たちの夏』でも取り上げられた、通産政策史では欠かすことのできないエピソードであったから、予備知識が十分ではなくとも関心をひくものであった。このあたりの問題について、私は『経済団体連合会30年史』を執筆したときに、橋本寿朗さんから経済界の対応などについてかなりの話を聞いていたから、当然のこととように触手が動くものだった。このほかにも貿易自由化、資本自由化などに関する資料など枚挙にいとまがないほどの多数の資料が活用されるのを待っていた。
私自身は、自分が執筆担当するテーマではないこともあり、また時間的にも余裕がなかったために、それらの綴りを読んだりすることはなかった。執筆担当者たちはそれぞれにこれらの資料の活用を試みたはずだが、その成果は第1期の『通商産業政策史』全17巻に集約されたにすぎず、まだまだ探索の余地のある資料である。
しかし、これらの通産政策史編纂のために集められ資料群は、編纂事業終了後には外部からはアクセスできなくなった。政策史編纂にとって資料の重要性についての認識は省内の担当者にも共有されたので、直ちに廃棄されることはないとは考えていたが、しばらくはどこに保管されているかもはっきりしなくなった。何人かの若い研究者に商工政策史編纂資料の利用について紹介してほしいなどの依頼があったりして、その都度、できるだけの手立てを講じてみたが、その結果、保管されていることは確認されているものの、情報公開には慎重な通産省側の姿勢が明確化するばかりで、閲覧することはできなかった。
第二期の通産政策史の編纂事業が始まって、これらの資料に新たな資料が追加されて通産省別館の書庫にあることがわかった。この「再発見」によって、これらの資料が再び研究資源として活用される道が開かれることになった。そこでは、編纂事業を指揮した尾高煌之助委員長の資料公開に関する強い熱意と、これに呼応した経産省・経済産業研究所関係者の資料公開の必要性について高い認識とが大きな推進力となった。こうして、一連の通産政策資料は、国立公文書館に移管されて公開されることになり、その資料がオンライン版としても利用可能となった。
ただし、ここには法令審査関係の文書群は含まれてはいなかったし、新政策に関する文書は経済産業省が公開に慎重であるために除外された。新政策に関する文書は、政策史研究者からみれば政策の立案の初期からの経過、変遷がわかるという意味では貴重な資料である。しかし、省の立場からみると、いまだ正式に省内の議論を経ていない「案の、案の、タタキ台」くらいのレベルの文書が、あたかも省の意見であるかのように取り扱われるリスクがあることが非公開の理由になっていた。もっとも通産省・経産省は『新政策』という名前の資料が存在すること自体を否認したいようだが、平成6年の新政策関係の資料が国立公文書館に収蔵されており、その資料の形からみれば、それが毎年のように作成されているはずのものであることは明白であり、存在を否定することは難しい。非公開に関する省の意見は、資料の扱い方について慎重を要することを知るうえでは貴重なものなので、尊重すべきだろう。
公開の原則からみれば甘い判断に見えるかもしれないが、 私たちの世代が公開の成果を独り占めする必要はない。欲張らずに、資料を残すことも重要な研究史上の貢献だと考えることができれば、もっといろいろなことができると思っている。公文書の保存に関連する法令に従えば、いずれも適当な時期に国立公文書館に移管されるべきものであろうから、それらが破棄されることなく適正に移管され、将来の研究者に活かされることを期待するばかりである。
ところで、この通商産業政策史の編纂事業に関わる資料保存では、大きな失敗も経験した。第1期の編纂が終わる頃に、すでにふれたように省内にも今後の政策史編纂には資料が不可欠であり、そのために少なくともこれからは系統的に資料を残すような制度的な工夫が必要だと考えるようになっていた。そのために、現用文書でなくなったときにというような手続きではなく、重要な文書の発生時点で複写した資料を一部、編纂資料として残すことができるように次のような手順が定められた。それは、当時は重要な文書は最終的にはタイプ印書されており、そのほとんどは外部の業者に委託されていたから、この委託の業務を担当する会計官のところで、通過する印刷業務に付される文書を一冊は書庫に保管することにしたのである。これが失敗だったのは、この頃から省内の文書は、ワープロやワープロソフトを利用して外注せずに作成されるようになったために、この手続きに関わる文書が急激に少なくなったからである。せっかくの工夫であったが、時勢に合わせて見直し、改めることを怠った結果であり、そのために第二期の編纂事業の開始時には、再び、政策資料の保管が不完全であり、事業の遂行に大きな支障が発生することになったのは、残念な失敗だった。こんな失敗は、アーカイブを作ろうとしているさまざまな立場の人には繰り返さないようにしてもらいたいものである。
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