日本経済史・経営史:研究者のひろば コラム

研究室の我楽多箱

第10回 府県庁文書 秋田と愛媛での調査から

武田晴人

第10回(1)

 都道府県や市町村などの自治体が文書館を設立して古い記録、そしてこれから発生する記録の保存に力を尽くすようになってきた。公文書の記録保存という点で、およそ歴史のある国としてはお粗末きわまりない現状ではあるが、少しずつ将来に向けて改善の兆しはある。

 長い研究生活のなかで自治体の保存の文書をいくつか見る機会があった。そのなかで、武田研究室にフィルムなどの形で複写物が残っているのは、秋田県庁文書と愛媛県庁文書である。

それ以外にも、忘れがたい記憶になっているは、大学院生の時に参加した長野県五加村調査であった。大石嘉一郎先生をリーダーとして西田美昭先生、林宥一さん、安田浩さん、金沢史男さんなど既に鬼籍に入った人もいるが、この村が保存する文書の最初の整理作業チームに動員された。この調査の話が出たころ、大石研究室で学会事務の仕事を手伝っていた私に、共同研究に参加するかどうかはともかく、資料整理の人手が足りないからと大石先生から声がかかった。農村問題・農業問題に手を広げる余裕がない大学院生のころだったので、返事をためらっていたら、大石先生から研究者として成長したいと思うなら、「農村資料を見なければダメだ」と脅されて同行することになった。最初の整理は、学校の体育館を借り、保存されていた総ての簿冊を1点1点並べて、類似使料を寄せ合わせながら、目録を作る作業だった。広い体育館の床一杯に並んだ史料はなかなかの圧巻だった。「手伝い」で行っただけという気分だったので、だれも関心を持たないために手が付けられていなかった「衛生」関係の資料の目録を作った記憶がある。私が参加したのは、この第一回だけで、あとは逃げ回った。だからこの経験が私の研究者としての成長につながったかは分からない。この時の様子は林宥一さんが日本経済評論社の「評論」に書いていたと記憶している。大石先生を中心とした共同研究は、1991年に日本経済評論社から『近代日本の行政村 : 長野県埴科郡五加村の研究』として刊行されている。

 さて、本題の県庁文書にもどろう。史料の保存状態は、地域によって大きな差がある。しかし、戦災などの理由もあって保存状態が極めて悪いケースが一般的だろう。『中部地方電気事業史』という中部電力の社史の編纂の時に見た名古屋の文書館では国立公文書館などに残る関係文書の複写で古い文書の復元を図っていた。そうしたなかで、明治初期からの文書が大量に保管されていたのが、秋田県庁であった。大学院に入りたての1970年代半ばに、当時地方金融史などに関心を持っていた伊藤正直さん、浅井良夫さん、地主小作関係の研究を志していた鈴木邦夫さんなどと石井寬治先生の引率で出かけている。この研究関心が異なる4人がそれぞれに興味深い史料を見つけられたのだから、県庁文書の質の高さが想像できるだろう。

 当時は、鉱山史という自分の専攻分野に特化して資料を見ていたので全容はよく分からなかったが、明治初期からの古い文書が大量に保存されていたことは実感できた。県庁の建物の広い地下倉庫の中をあちこち歩き回って資料を探していたからだ。当時の鉱山行政は、日本坑法や鉱業条例に基づく許認可の必要なことがらの多い行政分野で、その関係の書類は府県を経由して東京に送られ、あるいはその反対方向で指令、許認可が届く。県庁はその仲介点として記録が残っているため、東京の公文書館には保存されていない資料が数多く見出され、明治前半期の鉱山経営の実態を知る上では貴重だった。この県庁文書に関しては、それから数年後にも単独で訪問して補充調査をしているが、いずれの場合もミニコピーフィルムを使った写真撮影だった。そのフィルムは現在ではかなり劣化が進んでいて、2014年から15年にかけてデジタルへの転換を試みたが、なんとか個人の研究資源として使える程度に再生できただけだった。それでも、縁があって兼務研究員として勤めた三菱経済研究所史料館の仕事として産業革命期の三菱系鉱山について論文を執筆する時には、その時に撮影した資料が思いもかけず有用な情報源となった。荒川鉱山や尾去沢鉱山など秋田に所在した三菱の有力鉱山について、三菱所有以前の史料が断片的とはいえ収集してあった。これが使えたのである。もともと、資料調査に行くときにはあまりピンポイントで資料を探さず、自分の関心がある範囲を広くとって関連しそうであれば、とりあえず撮影して持ち帰るということを調査の基本方針にしていたので、こんな想定外の成果にも結びつく。あとでもう一度調べに行くことを考えれば、多少余分と思う資料も収集対象にしておくことが大事だと改めて確認する出来事になった。

 この三菱史料館論集への論文執筆に際して、あらためて秋田県庁文書について調べたところ、この文書は秋田県公文書館に現在では収蔵され、目録も作成されていることが分かった。そのため、論文の注記に公文書館の目録記載の書誌を書き込もうとしたが、当時の撮影のメモとは簿冊のタイトルの取り方などが異なって同定が難しかった。そんな苦労もあったが、秋田県公文書館のホームページ(http://www.pref.akita.lg.jp/pages/genre/kobunsyo)

によると、同館の保存文書には県文化財指定を受けているものも少なくなく、そのひとつに「秋田県行政文書」がある。これが私たちの見た史料である。この行政文書については、「秋田県庁公文書で、概ね明治4年の廃藩置県から昭和22年度の地方自治法施行まで作成された20,748点です。明治4年以降の県域分合が無く、また同6年の県庁舎火災以降は災害や空襲の被害が無かったため、全国有数の膨大な点数が各行政分野にわたり体系的に保存されています。また、工部省記録局長を前任した第4代秋田県権令石田英吉によって全国的にも早い明治8年に、記録の集中管理、保存年限の設定、事業別の分類編纂など近代的な文書管理制度が導入された点からも、学術的に貴重な近代行政文書群です」と紹介されている。


画像は公文書館のHPから。

>>画像:第二課勤農係事務簿


おそらく都道府県レベルでこれほどの資料を保存する例はあまり多くはないだろう。

その意味では、県庁文書としては特筆されるものであり、さまざまな研究関心からのアプローチを待っているものということもできる。

 これに対して、愛媛県庁文書は明治期の文書保存という点では極めて限定的なものであった。社会経済史学会が九州大学で開かれたのに参加した帰路、小倉から夜行のフェリーに乗って松山に移動して調査をしたのが1982年の5月のこと。正確に年月を覚えているのは、この調査中に長男が出生し、調査を中断して帰京することになったからである。愛媛県に注目したのは、別子銅山が所在する県であること、そして愛媛県商工労働部労政課が刊行した『資料愛媛労働運動史』全9巻や近代史文庫が『愛媛近代史料』の復刻などをしていたので、現地にいけば、その基礎となっている史料があるだろうとう直感だけの理由だった。住友財閥に関する資料が住友修史室にあり、別子の史料もそれが本命であったことは間違いなかったが、外部の研究者に対して扉を頑として閉ざしていたからであった。だから、県庁の文書は唯一の望みであり、そこに手掛かりを求めた。実際に『資料愛媛労働運動史』には住友の正史とされていた『垂裕明鑑』が引用されたりしていたので、そうした門外不出されている史料がどこかにあるのではとの期待もあった。

 すでにふれた事情もあってあまり時間をとれなかったことから、県庁の文書を見せていただき、愛媛県所在の鉱山に関する文書などを数点撮影するだけに終わった。狙っていた別子銅山に関連する資料はなかったからである。別子銅山の煙害事件なども含めて地方行政が別子銅山と関わりが多かったにもかかわらず、見せていただける資料はなかった。もっとも秋田県庁文書とは異なって、私自身が倉庫を歩き回って資料を探したわけではなく、担当者がこちらの希望に添って持ち出してきたものを見ただけだということは断っておく必要がある。

 そんな見込み違いがあったが、思わぬ発見もあった。それは明治前半期に国内最大のアンチモニー鉱山であった市之川鉱山の鉱業権に関する紛争の記録があったことである。撮影するものがほかにないというくらいの消極的な理由で、その資料の重要性も気付かずに持ち帰った資料だが、『日本産銅業史』をまとめるとき、重要な意味があることに気がついた。詳細は読んでいただく以外にはないが、明治前半期の鉱業経営や鉱区所有に関する権利が近代的な私的所有権として認められていく過渡期に生じた紛争であり、この事件は鉱業権の私的権利として不安定さを示す貴重な事例だった。だから、拾いものをしたことになるが、もし長男の誕生があと一日早ければ、松山に立ち寄ることもできず、そのためこの史料と出会うこともなかったかも知れない。また、別子の史料が県庁に大量にあったら、きっと見逃していただろう。史料との出会いとは本当に不思議なものである。

第10回(1)