日本経済史・経営史:研究者のひろば コラム

異端の試み

第2回(2) 帝国主義の経済構造について(2)

武田晴人

第2回(1)従属をどう捉えるのか/熟練労働力の質の問題
 (2)独占資本主義と労資関係の変化
 (3)調停法体制と普選治安維持法体制
 (4)入超構造の捉え方と過渡的性格/橋本寿朗説と武田説の相違点

独占資本主義と労資関係の変化

「覚書論文」が強調する労働力の質の変換というのは、独占資本主義論においてどういう意義をもっているのでしょうか?

武田:一般的にいうと、労働力の質的な変化が資本主義の資本蓄積構造に重要な影響を及ぼすとすれば、そうした変化が進行する産業部門が基軸産業化する時期が問題になる。つまり産業構造の重化学工業化は、独占への契機でもあると同時に、労働の質的な変化を通して資本蓄積に変容を迫ると考えています。すでにふれた循環的な恐慌が回避されるというのは、商品市場や労働力市場を通して見出される変化ですが、それに加えて実際に生産現場にいる労働者の技能が変わることの意味を考えようとしているのです。

もちろん、親方職工の万能的熟練を基盤とする間接的な雇用システムは、労務管理費用を節約できるという限りでは利用できれば最大限利用したいものだったと思うのです。たとえば、労働者の移動率が高い状態の下で労働者の募集などの新規雇用確保のコストは親方の負担として、企業の費用を最小化することができる。しかし、そうした生産システムでは国際競争力を備えた産業としての発展に限界がある。生産性向上の観点からは、間接的な管理に弊害があると考えられるようになったというのが、日露戦後の重化学工業部門や鉱山部門で見出された事実です。生産の現場を直接管理することによってはじめて、学卒の技術者たちが新しい技術の導入に取り組むこともできる。そこで生産現場を改革しようと試みるわけですが、採用される新しい技術とそれまでの職工たちのもっている技能とがずれがあり、それまでの生産管理の仕組みでは対応できなくなったということです。

このように間接的管理が解体されていくときに、企業内の労使関係が現場の管理だけでなく変容を迫られてくる。それまで、間接管理体制では、生産現場をコントロールしていただけでなく、労働者の管理を親方が担っていたのです。そのコントロールが弱まっていくことになり、これに社会主義の影響とか労働組合の影響が加わって、親方の支配から自立した新しい熟練を備えた労働者たちが、直接的な管理体制の下で労働運動にも参加し、労働運動が急激に盛り上がると考えることができる。

 資本主義体制への批判を内包しながら労使関係は、一般的に見ると帝国主義の成立期には労働組合の結成を前提とした労働力の集団的な取引が行われるようになる。このことは、雇用契約が労働力市場を介した調整だけでなく、労働組合による制約を受けるようになることを意味する。つまり、こうした変化は、労働力市場で想定される企業と労働者の個別的な取引関係について、それが実質的な意味では対等な取引関係にならないことから公平性を担保するために労働者の団結権を認めるようになってきたという歴史的な変化に現れていると思うのです。しかし、この変化は、労働組合の組織的な活動によって労働力市場の機能をゆがめ、制約しているということになる。その限りでは、独占段階において市場メカニズムが制約を受けるようになる、具体的に独占組織によって価格変動が人為的に管理されるようなるのと同じ方向の変化を意味するだろうというわけです。それが第一のポイントです。

 もう一つは、直接的な管理のもとで必要となる「新型熟練」がすべてではないということです。企業の側からは、学卒の技術者が新しく導入した技術体系に基づく生産システムに対応した新しい技能ですから、その熟練者が基幹工となる。そしてこの新型熟練が誕生すると同時にそれを如何に維持するかが企業にとって重要になる。ここが産業革命論特有の機械制大工業のロジックとは全くひっくり返っている点です。機械制大工業論では、労働力が代替可能でいつでも取り替えられるモノとしての労働力ですが、重化学工業化にともなう労働力の質的な変化は、それとは違って、あまり長く養成期間はかからないけれども、腕のいい新しいタイプの労働者を企業内に取り込む必要がある。代替可能でないばかりか、彼らは労働組合を通して発言する労働者でもある。モノではなく人格のある、人権を認められた存在なのです。そうだからこそ、労働運動の抵抗の下で労使協調を目指す企業では、基幹工の企業内へ取り込むことが最大の課題になる。そういう関係になっていると考えることができる。

 しかし、このような視点から労資関係や労働力の質を問題にしていくと、このような論理では説明できない事実も無視することはできなくなります。それが、基幹工と臨時工という、二重構造の形成です。私は、このような二重構造に注目し、そのなかで全体として独占的な、帝国主義的な経済構造を議論したいと考えています。これが第二のポイントになります。

この発想を支えているのは、帝国主義の対内的面への注目です。帝国主義の対内的面と対外的面とについて、石井寬治さんが前者を侵略で代表し、後者を独占で代表しようとしたのに対して、そうした二分法ではなく、仮に帝国主義をすぐれて政治的な概念だと考えると、帝国主義は外に向かって侵略するシステムであると同時に、帝国主義は国内的な政治システムとして、国内統治支配を通して民衆を抑圧しているシステムだと考えるべきではないかということです。国内統治の特徴に帝国主義段階に固有のものがあると考えるのは、きわめて自然な考え方ではないかと思います。そこで、対内的な支配システムとして帝国主義をとらえたとき、どういう特徴があるのかを議論していくことになります。

 帝国主義支配の国内的なあり方が独占資本主義論とか経済構造の変容の議論とどうつながるか、どこに接点があるか。これを議論するのであれば、やはり労働者をまず考えるべきだろう。もちろん農民のことも考えなければいけないし、それ以外のさまざまな階層の人たちのことも議論しなければいけない。しかし、資本主義社会である以上は労働者を問題にすべきだろう。だから、労資関係の変化が、独占資本主義論と帝国主義論を、国内の政治支配システムと経済システムをつなぐ鍵になると考えたのです。この点にこだわりすぎたので、私の議論は独占資本主義論としては余分なものをどんどん付け加えたようにみえるかもしれません。つまり、独占資本主義論では産業部門の独占だけを議論すればいいのに、労使関係を論点に加え、さらに調停法体制というような捉え方、アイデアにまで行くからです。

この問題にこだわった背景には、理論的な面でそれまでの議論に対する批判という側面もあります。それは、第一に帝国主義侵略とか、対外関係と国内の資本蓄積のあり方との関連が直接に説明できないということです。宇野段階論に代表されるようなマルクス経済学の帝国主義段階論では、独占形成に基づく過剰資本の発生までは論理的に説明できても、過剰資本が資本輸出に繋がるということは説明できないと考えています。なぜかといえば、独占は特定産業部門で起きることですから、仮にその部門で投資制限が必要となったとしても、他の産業部門でより有利な投資機会が存在することは排除できません。従って、過剰化する資本にとって、資本輸出は資本市場に提供される投資機会のリストの一つに過ぎないからです。つまり独占論を基盤とする帝国主義経済構造の把握は、帝国主義侵略についても資本輸出についても、内と外との関係を一義的につなげる論理を構築できないのです。そうだからこそ、内部の構造として経済構造と支配システムというか国民統合のシステムを論じることができるよう枠組みを考えることに意味があると考えたのです。

批判の第二はより直接的に宇野理論の論理構成への批判です。宇野理論には強い影響を受けていますが、その特徴となる「労働力商品化の無理」、つまり労働力商品の特性に注目して資本主義を考えようということに拘ってみると、そのような特徴が段階論を構成する際に活かされていないと感じていました。労働力商品化の無理は、段階的な変化の中でどのように発現するのか、資本蓄積にどのような制約となるのか。この点を気にして読んでみても明確には書かれていないようでした。この論点を積極的に取り上げて、段階論に組み込もうというのが、橋本さんや私が考えようとしていたことです。先ほどもふれたように恐慌現象が回避されるという限りでは、失業の問題を通して議論されているようにも見えるけれども、実際に雇用されている労働者のあり方こそ問題にすべきではないか、ということです。この点について雇用労働者に関心を集中させたのが橋本さんで、私はそれだけでなく失業した人の生存をどのように保障したのか、どうやって食わせたのかも資本主義体制にとって重要ではないかと考える範囲を広げていきます。その先に基幹工以外の労働者などの「周辺」に関する論点が浮上し、それを議論することによって一国資本主義が帝国主義として成立する理由が説明できるのではないか、と考えていったのです。

第2回(1)従属をどう捉えるのか/熟練労働力の質の問題
 (2)独占資本主義と労資関係の変化
 (3)調停法体制と普選治安維持法体制
 (4)入超構造の捉え方と過渡的性格/橋本寿朗説と武田説の相違点