― 若い時に影響を受けた本について教えてください。
大学に入った頃はフランス文学が興味の対象で、19世紀の小説を翻訳で乱読していました。フランス文学というのは、時代別で専門を決めていき、だいたいこの時代をやるというように分かれていくことが多いのですが、やがて僕はフランス革命直後の時代に興味を持ちました。
卒業論文は、セナンクールの『オーベルマン』という小説というか身辺雑記について書きました。彼は、今でいうひきこもりで暗い人で、フランス革命より遅れてきた世代だったんです。フランス革命の時20歳くらいで、物心ついて社会に出たら革命の熱狂が終わり、保守化・硬直した状況に戻っていて、その世代の感覚が当時の僕に合っていた。というのも1970年代初め、70年安保の時代は、若者が政治的に活発に活動していた時期でしたが、僕はそれより少し若くて、大学に入っていたときにはすべての熱狂が終わってしまっていた。みんな白けているというか、茫然自失という雰囲気だったんです。セナンクールが似たような状況に生きていたのではないかと感じて、卒業論文の題材に選びました。
その後、大学に残ろう、研究を続けようと思ったとき、正直にいえば社会に出たくない、研究でも続けようと思ったとき、セナンクールではあまりやることがない。プロパーの仕事はありますが、内向的・非生産的な人間なのであまり発展させる可能性がないと思い、バンジャマン・コンスタンをテーマに選び直しました。彼は『アドルフ』という恋愛小説が有名ですが、セナンクールと同時代で、また、政治活動をやったり宗教論を書いたりと多彩な活動をしていたので視野が広がるだろうとの期待がありました。
ちょうどフランスに留学する時期と重なって、コンスタンについて博士論文を書くということになったのですが、当時はインターネットもネット書店もなく、資料を探すというのが非常に困難でした。そこで論文をどうやって書いたかというと、1960年代後半から1970年代前半まで流行していた「ヌーヴェル・クリティーク」という、それまでの「講壇批評」、作家の私生活や社会状況などが作品に反映されているというオーソドックスな研究方法を批判して、「作品は独立して一つの世界を作っている」という考えにもとづいて新たな方法を提出していた動きに乗りました。テキスト批評やテーマ批評、この頃まで残っているのでいうとナラトロジーがその流れですが、作品そのものを分析するというのが当時非常にフランスでは流行していました。正直のところ僕にはあまりぴんとこなかったのですが、小説なりいくつかのテキストがあると、それ以上あまり資料が必要ないんですね。日本で論文を書くことになったとき、いちいち古文書に当たるのはできないし、この方法ならばある程度かっちりした論文が書けるだろうと思い、コンスタンの文学作品や手紙、日記を対象に博士論文を仕上げました。
ただ内心は、コンスタンの多面性を切り捨てる、無視する形になってしまうところが不満でした。
そのころ絶えず参照していたのが、コンスタンのプレイヤード版です。半分が文学や手紙・日記、残りはそれ以外の、政治論や宗教論が収録されています。当時のコンスタンは矛盾した人格の人、女性に対しては不実の人、政治家としては日和見主義者というようなイメージがありました。つまり彼の人間像自体が、内省的な文学も書けば、きわめてマキャベリスティックな政治活動をしてナポレオンとくっついたり離れたりし、さらには浩瀚な宗教論を執筆するといった、ばらばらのイメージでした。それらを総合する視点が必要だろうと思っていて、そのとき読んだのが、1984年に出た、クローケというドイツ人の書いた『バンジャマン・コンスタン、知的伝記』という本です。非常に勉強になったし、大変影響を受けました。コンスタンの全体像が初めて見えたような気がしました。
コンスタンが文学史的・思想史的に面白いのは、19世紀初めのヨーロッパに強い影響力を持った、コペ・グループに属していた点です。ジュネーブの近くにスタール夫人が邸宅を持っていて、スイスは独立国だったので、フランスの反体制派の知識人やヨーロッパ各国の知識人が集まって、活発なサロンを形成していました。コンスタンはスタール夫人の愛人でもあったのですが、サロンには文学者、経済学者、哲学者、自然科学者もいて、当時のヨーロッパの知性を代表するような人たちがたくさん集っていました。つまりコンスタンを理解するには、彼の活動を総合的に捉えるだけではなく、コペ・グループの多彩な活動をも理解しないとならず、さらにはその時代の知的・政治的な状況をも理解する必要があるだろうと思いました。だんだん視野が広がらざるを得なかったと言えます。
少し話が脱線しますが、このごろの研究というのはだんだん「たこつぼ化」していると感じます。もともとフランスは方法論について意識的なところもありますが、あまり全体を見回して鷹揚に話をするというのが少なく、厳格な方法論で進んでいくことが多い。
留学した最初の時、先生にアポイントメントを取り、会いにいったら、その先生は19世紀前半の文学の権威だったのですが、開口一番「あなたの研究方法はなんですか?」と聞かれて、ショックを受けました。今、日本の近代文学を教えている先生が卒業論文指導で学生に質問をするとしたら、たとえば漱石や鴎外など作家や作品の何に興味を持っているかをまずたずねるだろうと思います。ところが「あなたの方法はなんですか?」と聞かれた。方法というのは、研究対象があって、その対象を理解するために最良のものを考える、いわば後から来るものだと思っていたので、びっくりしました。
けれども僕が勉強を始めた頃のフランスでは方法論への関心が先行していて、たとえば時代を理解しよう、社会を理解しようというときも、シャープな視点から分析的に切り込んでいくことが優先していました。これに対して、僕はもっと全体的にとらえて理解するという方法があるのではと思っていました。ましてコンスタンのように多面的な人間を理解するためには、時代全体を視野に入れなければならないだろうと考えていました。
そんな時、影響受けたのは、ポール・アザールの『ヨーロッパ精神の危機』。野沢協先生が訳していて、翻訳のお手本のような本です。アザールは別に『十八世紀ヨーロッパ思想』という本も書いています。『ヨーロッパ精神の危機』は、17世紀終わりから18世紀初めの知的な状況を総合的に悠然と語っていく本。これを読んで、救われたような気分になりました。ただこれは1935年に出た古い本なので、フランスでもクラシックではあるが、今直接利用されることはありません。けれども全体の目配りや様々な側面に言及しつつ、総合的に時代や社会をとらえるという点はいまでも魅力的だと思います。こういう理解の仕方なり、仕事ができたらいいなと思いました。ただ現在では研究をめぐる状況も違い、アザールは大変な碩学というか泰斗なので、真似するのはできないでしょう。
― これらの本は、留学から帰ってきて読まれたのでしょうか?
はい、当時は並行して様々な本を読みました。アザールの本を読んだのは、コンスタンやフランス革命の頃を理解するには、18世紀のことを知ることが必要で、さらに18世紀を理解するためには17世紀からの変化についても知る必要があるという流れでたどり着いた感じです。
もう一つの転機というのか、自分の勉強に大きな影響を及ぼしたのは、岩波書店の『17・18世紀大旅行記叢書』に関わったことです。二宮敬先生に翻訳を頼まれて、フンボルトの『新大陸赤道地方紀行』を訳しました。3巻本でしたが大変な作業で、なぜ大変かというと、フンボルトが博物学者で、自然科学、人文科学、社会科学などあらゆることに通じていて、書物の体裁は南米の旅行記ですが、彼の博識がつめこまれていたからです。ただこの翻訳作業が、『停滞の帝国』のあとがきにも書きましたが、フランス文学という研究の対象を広げさせてくれる契機にになりました。もう少し広い視野に立って、ヨーロッパの文化を理解してみたいと考えるようになったのです。
そもそもフランス文学を始めた理由は、好きな作家がいたからという理由もありましたが、「西洋文明とは何か」というのを考えてみたいというのもあったと思います。
― フランス語はどのように勉強されたのでしょうか?
僕の時代は、大学生はできない方がかっこよかった。露文の友達は、ロシア語は文字が33あるんだそうですが、4年生の秋になっても半分しか知らないというのを自慢していたくらい。僕も、2年生くらいまでフランスが「不可」でした。高校生の時は文学青年で、いろいろな本を読んでいて、もちろん翻訳で読んでいたのですけど、新しく勉強したフランス語ではそういう本が全然読めない。1行に10回辞書を引いてもわからないという感じだったので、全然勉強しなかった。ただ、留年して下の学年に行ったら、後輩にフランス語について聞かれたりして、できないから落ちたのだからわかるわけがないだろうと思いましたが、聞かれたら仕方なく調べ始めたりして、そこから真面目にやりだしたという。つまり完全な独学です。
― 卒業論文を書く頃には、フランス語を読めるようになっていたのでしょうか?
それでも必死に辞書を引いて、何とか読み進めるというレベルでしたね。当時は辞書が悪かったので大変でした。仏和辞書が整備されるのはだいたいバブルの頃です。大手出版社が参入し、大枚を投じて辞書を作った。フランスではLexicographie(辞書学)が進み、フランス語の辞書が急速に新しくなっていきます。日本はその成果を取り入れて、少し遅れてコンピュータが導入され、毎年改版が出るなど、仏和辞書はどんどん進歩していきましたが、当時はまだよい辞書がありませんでした。
広い視野の必要性や魅力を感じていた時に、中国がフンボルトの本の中に何度か出てきました。中国とヨーロッパ・西洋という関係はとても興味深いと思い、実際にコンスタンとの関わりで、当時の中国像というのを調べてみると、奇天烈なんですね。これは面白いと思って、『停滞の帝国』を書き始めたわけです。
その時、参照したのが、後藤末雄の『中国思想のフランス西漸』(平凡社)です。研究を始めるときは、既にどんな本が書かれているかを調査しないといけないのですが、僕が関心を持ったテーマについて、それなりの分量で日本語で書かれているのはこの本しかありませんでした。昭和8年、戦前に出た本です。前書きは涙なくして読めないのですが、後藤末雄は谷崎潤一郎と同い年で文学畑の人です。永井荷風の後、慶應義塾大学のフランス文学の教授になりました。戦前の日本でなぜこの本を書けたかというと、東洋文庫に東洋学関係の書物が豊富に収蔵されていて、それを使ったんですね。東洋文庫は、世界にある五大東洋関係図書館の一つと謳われています。戦前、日本は大陸と関係が深く、仏教での関わりや経済的、軍事的に進出したということもあって、河口慧海が仏典を持ってきたり、大谷探検隊が派遣されたり、中国を含む東アジアとの関係が非常に濃かった。東洋文庫は、三菱財閥の岩崎久弥が購入した膨大なコレクションを基にしていて、日本にも西洋人が中国や東洋について観察した書物がたくさんあったのですね。それらを利用して後藤末雄は、粒々辛苦、研究を進めたのです。
しかしこの戦前の学者と同じことをしても意味がなく、その仕事を超えないといけない。そういう点から考えると、この本は、中国がフランスでどう見られていたかという話なので、フランスに限定されている。フランスという枠組みはフランス人が研究するなら意味を持つでしょうが、日本人が問題を理解するためには狭く、不十分であると思いました。調べていくと、フランスだけでなくイギリス、ドイツ、ポルトガルなどヨーロッパ全体で中国との関係を考える必要があるだろうと考えていたからです。また、この本の記述が18世紀半ばで終わっていること。先行研究や資料が十分になかった時代にそこまで書けたのは尊敬すべきことですが、18世紀後半や19世紀にも面白い現象がたくさんあるので、時代的にももっと広く、もっと後代までを見た方が良いだろうと思いました。
― 本書のスタートはイエズス会ですね。
結局、いかに異なる文明を理解するのが難しいのかということです。最も初期に中国に入ったイエズス会が、現代の目から見てもきわめて柔軟に異なる文化に接しようとしていたのは面白かったですね。当時イエズス会は南米でも宣教しますが、その方法はかなり強引です。しかし中国では方法を変え、社会に溶け込み、理解することを徹底します。文字を覚え、文化を理解して、社会に浸透していく。最終的な目的はキリスト教化ですが、服装も中国人と同じにして宮廷に入っていくんですね。他の、例えばフランシスコ会などは、ヨーロッパと同じ服装で、ヨーロッパと同じ方法で説教したので受け入れらません。19世紀になってもプロテスタントの宣教師はほとんど中国を理解せず、中国は間違っているという前提に立ち、間違っている中国人を正すというスタンスでした。頭が固いなと思いました。
― 先ほど「ヌーヴェル・クリティーク」とおっしゃっていましたが、先生が参考にされた本はありますか?
今回の『停滞の帝国』に関しては全くありません。それを離れればいろいろありますが、ジョルジュ・プーレ、リシャールは面白かったです。精神分析を利用した分析やテーマ批評などはとても新鮮に感じました。
プーレは影響力がありましたし、今読んでも面白いですが、あまり厳格な方法論を採らず直観によるところが大きいと思います。このプーレやスタロバンスキー本人には会ったことがありますが、辞書を引きながら読んでいた著者が目の前にいたり、講演を聞いたりすると、迫力が違うし、圧倒される思いがしました。
― フェリス女学院大学ではどのような授業をされていますか?
今年度の講義は「平等論の展開」というテーマで行っています。僕は一つのテーマをいろんな角度から考察する授業をしたいと思っているのですが、「平等」は、哲学、政治思想や宗教、祝祭などの日常生活にも出てくるので、それらを見ながら時代の流れが見えてきたらいいと思っています。
― ヨーロッパを理解しようと思ってフランスを選んだとおっしゃっていましたが、今もフランスへの関心が一番高いでしょうか?
今は特にフランスだけとは思っていないですね。フランス文学に興味を持って勉強を始めたけれど、実はヨーロッパの文化や文明について理解したいと考えていたのだろうと思います。
ただ『停滞の帝国』を書いて、もう西洋と中国の関係についてこれ以上やるとなると、仕切り直しになるし、大変だなと思っています。
― 現在は、どのように資料を探していらっしゃいますか?紙の本はお好きですか?
本が好きなので、20世紀の本は紙で買わないとそろわないと思いますし、その前の時代の本も趣味で買っています。ただ資料としては、デジタルテキストをよく使うようになりました。
ビブリオテーク・ナショナル(Bibliotheque Nationale de France、フランス国立図書館)も電子図書館「ガリカ」を運営しています。Google Book Searchはアメリカの大学の蔵書が中心ですが、『停滞の帝国』を書く際、結構利用しました。便利だと思います。
それでも学術誌の研究論文などは手に入りにくいかもしれません。こういう資料は図書館に探しにいくしかないでしょうね。クラシックはだいたい電子書籍になって入手できるようになりました。
書籍の電子化は2006年くらいからでしょうか、急速に進みました。したがって『停滞の帝国』の半分くらいまでは資料を購入して書き、後半は電子書籍を参照して仕上げました。もう本が読めないから論文が書けませんという言い訳は通用しないですね。
― 現在、関心があるテーマはありますか?
西洋人が日本をどう見ていたかは研究したいテーマです。西洋において日本は中国ほど知られていなかったし、中国に比べるとインパクトが少ない存在だったろうと思われます。ただ中国を調べる過程で、日本のことについてもいろいろ書かれていることがわかったので、それらを一度まとめてみたいです。
もう一つは、「西洋文明とは何か」という問題意識から、何か具体的なテーマを軸に、古典古代から現代にまで至る西洋文明のあり様について考える本を書いてみたいです。最短でも10年はかかりそうな仕事ですが、壮大なものをやってみたい。
この頃、認識を新たにしたのは、翻訳が果たした役割の重要性です。西洋でも17世紀あたりには各国語の翻訳が多く出回っていました。その後も、たとえば中国の旅行記が英語で刊行されるとすぐ、フランス語やイタリア語に訳されていて、翻訳による影響力がとても強かったことを再認識しました。
ただ僕は長いこと、翻訳はいけないものだと刷り込まれていました。フランス文学を勉強する以上それらのテキストを翻訳で読むのは負けだと言われ、吉田健一だったか、翻訳は読むものではなくてするものだという主張を信奉し続けていました。つまり翻訳はお金を儲けるためのものでそれ以上の価値はないという。
けれども翻訳がヨーロッパで強い影響力を持っていた事実を、今回の研究過程で目の当たりにして、翻訳をそういう角度から見直すのも面白いと思いました。昔はコピーライトがなかったので、訳者が自由に削除や追加をしていました。その結果、翻訳によって新たな視点が加わって、政治思想や経済思想が伝わっていった。思想史というと大体オリジナルの書物に絶対的な価値をおいて研究しますが、実際には必ずしもオリジナルではなく、変形された形の翻訳や紹介など、二次的なテキストによって影響が及んでいるということがわかりました。こういう観点は思想史を検証する新たな可能性でもあろうと思います。
― ありがとうございました。