「これまでの本、これからの本」第4回 圷美奈子准教授

「お薦めの本を1冊挙げてください」と言われたら、皆さんはどの本を思い浮かべますか?
このコーナーでは様々な先生方に学術書を中心にご自身の思い出の書籍、現在関心を抱いている書籍を挙げていただき、それらの書籍に対する思いを語っていただきます。

【インタビュー】

圷先生は、学生に「古典は面白い!と思ってほしい。長く、古典に対するいい印象・記憶を残してもらいたい」と授業なども工夫されていらっしゃいます。
日本の古典文学を研究するようになったきっかけや、印象に残っている本についてお話を伺いました。

Q: 最近、日本の古典文学に関するやわらかい本が増えていますね。

そうですね。自分で探した本以外に、学生や知人に教えてもらった漫画や洋書などもあります(研究室の書架に並ぶ)。最近注目されている『超訳百人一首 うた恋い。』は、付録(第2巻)DVDの「完成度が高く」(学生談)、大学の「表現コース」の学生たちと一緒に鑑賞したときなど、思わず、涙する人もいました。一つの和歌が生まれた必然をドラマチックに描いていて、歴史の行間を埋めていく作業が、学生たちにとっても、たいへん刺激になったようです。

Q: 百人一首のDVDを見て泣いてしまうというのは、恋が切ないからとかそういうエピソードでしょうか?

私自身は、学生の前なので、泣くのはちょっとこらえましたけれど。恋心の切なさばかりでなく、たとえば、陽成院(当時天皇)が、在原業平の死の事実について、あとから知る……というシーンなどがぐっとくるようです。主人公が、「とりかえしがつかない」という感情に出合う場面です。何度見ても感動しますが、ここは「ネタバレ」になってしまいますね?

Q: 先生が古典に興味をもったきっかけは何でしょうか?

私は、祖父や父と同じような道に進みました。二人とも、教師です。明治生まれの祖父は当時の公民科・国語科、戦後は道徳・国語の先生になった人で、父も国語科です。そのため家には、明治・大正・昭和期の基本的な叢書類が揃っていました。父のころは、「旧大系」などですね。祖父や父が勉強のために、刊行された当時に揃えた本が、身近にあったことが、影響したかもしれません。

Q: 「旧大系」について教えてください。

「旧大系」は、岩波書店の「日本古典文学大系」のことです。「新日本古典文学大系」は最近完結しました(2005年)。古典研究の基礎的なシリーズというと、小学館の「日本古典文学全集」もあります。

Q: そういう本を小さい時から読んでいたのですか?

「日本文学叢書」や「有朋堂文庫」の、『万葉集』『古今集』などと書かれた金字の背表紙を見ていました。タイトルだけです。日本のあらゆる古典の「タイトル」だけ、見上げて育ちました。まわりにあるのがまた別の分野のものであったら、興味の対象は違っていたかもしれませんね。環境において、古典に対する「壁」はありませんでした。特に読むように言われたこともありませんでしたが、いつの間にか、自然に手に取るようになっていました。

Q: 大学進学の際は、文学専攻を希望されたのでしょうか?

高校生の時、古典の授業で、『伊勢物語』の「梓弓」の話に入ろうとしたときです。ずっと男性を待っていた女性が、身近で支えてくれた男性と結婚すると決めたその晩に、待っていた男性が帰ってきて、さあ……!というお話。現代のドラマでも、木村拓哉主演の「プライド」でしたか、少し似たような設定があったかと思います。普遍的なストーリーなんですね。そばにいてくれた相手と新しく歩み出そうと決めた日に限って、数年ぶりに「本命」の男性が帰ってくる……というパターン。

あらたまの 年の三年を 待ちわびて ただ今宵こそ 新枕すれ

授業では、女性が詠んだ歌として教わることになるのですが、私は教科書のその文字を見て、「新枕(にいまくら)」というのは「男の言葉だ……!」と思いました。男性が詠んだ歌を、ややこしい状況に追い込まれた女性の歌として仕立て上げた“パロディ”。高校2年生の、少女らしい直感とでも言ったらよいでしょうか。

女性がそれを言うとしたら、あるいは「手枕(たまくら)」などという言葉かもしれません。これだと「腕枕」のことで、ロマンティックですね。「新枕」をめぐるこの歌は、「やった!ついに今夜結婚だ~!」という、男性による結婚の喜びの歌であり、『伊勢物語』は、それを悲劇のヒロインの歌として描き変えてみせた。歌の言葉は一文字も変えることなく。これによって、「待つ」ことの意味を追及する、新しい物語が生まれるわけです。

あひ思はで 離(か)れぬる人を とどめかね わが身は今ぞ 消えはてぬめる

「梓弓」のお話の最後で、女性は死んでしまいます。この歌は「今にも死んでしまいそう(死んでしまうに違いない)」と詠うもので、いわゆる「恋死に」をテーマにしています。「死ぬほど愛している」というわけで、本当に死ぬこととは違うのですが、『伊勢物語』は歌の言葉どおりに話が進むので、この歌を詠んだ登場人物は、舞台上で〈殺されて〉しまう。すべて、歌のとおりになるわけです。

ですが、当時こういう考え方はありませんでしたから、当然、そういう「答え」も存在していませんでした。新鮮かつ大胆な『伊勢物語』の手法について、教室で教わることはなかったのです。この時の経験をきっかけに、「勉強は、教わるだけでなく、まず自分でするものなのだな……」と思ったのが、古典への興味の第二段階となりました。特に文学は、自分の力で読み解くことが大切だと実感したできごとです。

Q: 先生は「新枕」と聞いて男性の言葉だと思う素養は、当時からあったんですね。

「素養」ということなのでしょうか? よくわかりません。そのとき、まだ『伊勢物語』を本格的に読んでいたわけではありませんでしたが、ただまっすぐに、「これは男の言葉だ!」と思った。これだけはブレないし、授業で違うことを教わっても簡単に「上書き」できる感覚ではありません。「圷さん、それは間違いですよ」と言われて、「はい、そうですか」と、ただ納得できるような「知識」ではないのです。

『伊勢物語』のパロディ性、歌の言葉どおりに場面化していく手法(和歌の常識から言えば、「ボケ倒す」感じ?)については、その後(20年以上経って)、論文にまとめました。『王朝文学論―古典作品の新しい解釈』に収めて、その後も毎年、『伊勢物語』の章段を対象に論文を書き続けています。『枕草子』や『源氏物語』に関する新しい解釈をつづった最初の本『新しい枕草子論―主題・手法 そして本文』に続く成果をまとめたものです。

もっとも端的に、わかりやすいのは、業平の辞世の歌の例です。

つひに行く 道とはかねて 聞きしかど 昨日今日とは 思はざりしを

これこそ、真実、深い感慨がこもった辞世の和歌とみなされていますが、本当は、昨日ふられた男の歌なのです。これも「恋死に」の話ですね。人間、いつか死ぬとは知っていたが、それがなんとなんと「昨日」だったとはね……という文脈です。そういう歌はほかにもあるので。

固く信じられ、疑われたことさえいないものが、実は、ちょっと違っていたかもしれない……というのは興味深いことですね。それらを自分で発見して、提言するというのは、幼い頃からの性格で、私に向いているかもしれません。しかし、昔の日本人は、みな知っていたのではないか……とも思っています。解釈研究は、長い間に失われた記憶を探り当てる仕事でもあります。

たしかに古典はいろいろと解釈ができるというイメージがありますね。「国語の答えは一つではない」とよく言います。
しかし、私は、さまざまに解釈できるということと、その中から一つ、やはり「正しいこと」を見つけ出すということは違うと思っています。物語や和歌などの古典が、1000年の時を越えて受け継がれ、命を保つというのは、それが、ああもこうも解釈できるものであるからではなく、真の意味(核心)は一つなのだと。それを受け止めるときの「吸収の仕方」については、その人その人に応じたふさわしい形があるため、時代や年齢に応じていろんな答えがあるように見えるだけなのではないでしょうか。研究者が指摘しなければならない作品の「核心」は、和歌であれば、常に、三十一文字に結ばれた一つの和歌の文脈の中からだけ見出だされる答えなのです。

Q: 解釈ではなく、真実ということでしょうか。

つまり過去のあらゆる説を否定せず、かつ、歌の言葉の中からのみ見出だされるもの。その意味で、否定しようのない解釈を提示するのが仕事だと思っています。そういう意味では、答えは一つと言えますね。

例えば、小野小町の歌。

花の色は うつりにけりな いたづらに わが身世にふる ながめせしまに

「花」にはいろんな説があるのをご存知ですか。

Q: 自分の美貌かと思っていましたが・・・。

小町の美貌という説もありますね。「花」については中世から説が分かれていました。花だ、桜だと言う人もいれば、小町のルックスとかけているという人もいますし(これが一般的でしょう)、最近は「男の心」であるというのが学説としては主力になっています。ですが、歌の中からだけ答えを見出だすならば、答えはまず「色移ろうもの」ですね。この答えは揺るがないものです。歌の言葉の中からのみ、見出だされるものですから。
そうしてはじめて、美貌も、桜も男の心も、みな包括的に捉えられます。「男の心」と捉えた方が歌の心を理解しやすければ人はそう感じるし、「美貌」と捉えた方が歌の心を吸収できるとなればそう見るというのが、諸説分かれる理由ですが、私が行うべきことは「花とは、色移ろうもの」ですよ、という、また新しい一つの答えを出すこと。もしこれが、小町自身、今「それ」を花として発見したという歌であったなら?

人は、「花の歌」を詠んだ小町にとって「花」とは自明のものであったと思い込んでしまっています。しかし、小町が今それを「花」として発見した瞬間であるかもしれないですよね、何か「色移ろったもの」を見て。「ああ、お前も花だったのか」と、色移ろうものを「花」として“発見”したからこそ、「にけりな」という、少し特殊な表現が使われてもいる。「にけり」だけでも相当に強調した形であるのに、さらに強意の「な」を付け、しかも和歌全体は倒置法になっている。
まったく思いも寄らなかったことについて、今、はじめて気がついた。「そうか!花だったんだ」と、「それ」が色移ろったことによって気がついた、そういう歌です。
私の答えの出し方は、歌の文脈の外部に答えを求めるものではありません。さまざまに想像するのとは違って、歌の言葉の組み合わせからのみ導き出すということ。だから、その点での反論は難しいのではないかと思いますが、それでも「すべて単なる思いつきにすぎない」と批判されたりします。「思いつくこと」こそが命なのかもしれません。

Q: 先行研究はあまり気にされませんか。

いえ、先行研究は徹底的に検討します。新しい解釈について「思いついた」とき、「誰かがすでに言っているはずだ」と考えますから。近い意見はあっても、その核心部分は、手着かずであることが多い。ですから、「誰かが言っているはずだ」と思って、それを尊重すべく、可能な限り、調べ尽くそうと努力します。

何か盲点があるんですよね、必ず。この小町の歌だったら、「“花の色は~”と、花について詠んだ小町自身は“花”とは何か知っていた」という思い込みがある。1000年経ってこちらが現場にいないから、「花」が何なのかわからないだけで、詠んだ本人は、はじめからわかっていたという思い込みがあります。
ですが、小町は今それを初めて花として認識したのかもしれない、色移ろうものを見て。それは必ずしも「美しい」ものではないかもしれません。

Q: 先生が、影響を受けた本や研究者はありますか?

好きな本があります。今回は私のほうからの質問も多いですね、たとえば、突然ですが、「母よ、子のために怒れ!」、というのはどのような意味だと思いますか?

Q: お母さんは子どものために、心を鬼にして怒るときは怒らなければいけない、という意味でしょうか。または子どもが無体なことをされたときに盾になって怒るとか。

どちらでしょうね……? これは、“「は」のカルタ”なんです。影響を受けた本、よく読んだ本として紹介したいものですし、授業の教材にもしたりしますが、読み取りはそう簡単ではありません。

「は」「母よ、子のために怒れ」
「いいえ、私には信じられない。悪いのは、あなただ。この子は、情のふかい子でした。この子は、いつでも弱いものをかばいました。この子は、私の子です。おお、よし。お泣きでない。こうしてお母さんが、来たからには、もう、指一本ふれさせまい!」
「懶惰の歌留多」(太宰治)

太宰の特に短編が好きなのですけれど、「懶惰の歌留多」などはおすすめです。本当に大切なものは何かということを知るための、発想の転換法について教えてくれる。

発想の転換をさせてくれるものは大事です。すべての書物はそういうものだと思いますが、とくに太宰の短編にはそういうところが顕著であるのと、あと、言葉の選び方とか組み合わせが揺るぎないというか、他の言葉には置き換えられない形で、一つ一つの言葉が選び取られていると感じます。

本に囲まれた環境でしたから、小さい時から近現代の作品も多く読んできたと思います。その中でも太宰の短編は発想の転換をさせてくれる本として影響を受けたし、好きですね。

Q: 発想の転換の大事さとは何でしょう?

先入観をいかにとりはらうかが、大事です。同じ物を見ているのに、「見えているのに見ていない」ことが多い。「バイアスがかかる」とよく言いますが、その中で「あ、言われてみればそうだ」という説を出していくわけですけれど、何か大切なことについて、見えなくしているものがあって、それが先入観であり、時には「知識」のこともある。ですから、調べればわかるような知識だけを詰め込む時代ではなくなったと思っています。
先入観は一番の敵ですよね、私たちにとって。あらゆる差別の原因にも先入観が関わっています。平等・公平であろうと思ったらまず先入観を捨てなければなりません。

文学をやっていると、そういうことばかり考えています。

ほかに太宰の「カルタ」(「懶惰の歌留多」)の「ろ」には、「修身、斉家、治国、平天下」の順番を逆さに考える作品があります。大きなことを言うよりも、まずわが身を律せよというけれど、逆じゃないかと書いてあるんですよね。世界が平和で、国が整っていて、家庭も平和で、それで身が修まるなら、はじめて気持が良いことだ、と。文字どおり逆転させているわけですけれど、常識をひっくりかえしたことを言ってみせて、見事に「文章」になるところがすごい。『枕草子』っぽいですよ。

「春はあけぼの」というのも、「春=(イコール)あけぼの」になるわけですよね、図式化すると。春の方が分量的には多い(大きい)のに、イコールで結ぶ形にすることで、価値としては、とたんに「あけぼの」の方が大きく(重く)なる。春を、あけぼのという一刻(ひととき)のうちに象徴させた表現です。
ですがここで、「をかし」をつけてしまうと、その意味が伝わりにくくなってしまう。「春はあけぼのがいい」「春がすばらしい」になってしまう。書いてあるのは、春という季節はこの一刻のうちに象徴される、だから「あけぼの」の方が重要ということです。
無常思想が世の中を覆い尽くしていたその時代にあって、今生きている瞬間が大事と言える清少納言は相当に「早い」ですよね。

その200年後、道元が、同じようなことを言っています。

たとへば、春の経歴(きょうりゃく)はかならず春を経歴するなり。経歴は春にはあらざれども、春の経歴なるがゆゑに、経歴いま春の時に成道せり。
『正法眼蔵』「有時」(道元)

道元あたりになるとはじめて評価される。清少納言はそれこそ「思いつき」で言っているだけだと批判されたりしますが、なかなか「春はあけぼの」とは言い切れないですよね。

Q: 清少納言のような描写が良いという人も増えてきた印象があります。

清少納言の表現は、単なる景色の描写ではありません。だから謎になっているということもあります。まず、「春はあけぼの」という構文自体が謎です。「をかし」をつける・つけないで議論されていますし、「をかし」が「ついていない」理由も明らかにされていません。「春イコールあけぼの」、「春はあけぼのというひと時のうちに象徴される」と読み取る、私のような意見は、過去に出されていません。

日々繰り返されるひとときとしての「あけぼの」の方が一層大切で、その「あけぼの」の良さが最も深く味わえるのが春。朝のすがすがしさを最も鮮烈に味わえるのは冬。「冬は朝が“良い”」あるいは「好きだ」とは言っていないんです。季節より、命の一刻に重きを置くのはいわゆる無常観とは対立するかもしれませんし、その意味でも、清少納言の文章の革新的なところと言えます。

清少納言の言葉の選び方こそ、常に過不足がないですよね。「春はあけぼの」という、1000年経っても揺るがない言葉を選び取って残す。いろいろ削ぎ落としてあるので、現代の言葉に「訳」をする必要もなく、そのまま伝わります。無駄がない、端的な言葉の選び方というのは非常に優れているし、和歌のような「比喩」でもありません。
清少納言の和歌について本を書いてあらためていろいろ考えましたが、和歌ではなく『枕草子』を残したというのは、和歌で表現できない真実があったのでしょうし、表現できていると思います。

Q: 和歌だと、かけ言葉などいろんな意味を含ませる必要がありますね。

清少納言にとっても、掛詞(かけ言葉)のたぐいはお手のものですが、和歌は何よりもまず、「テーマ」を決めないと詠めません。俳句はそこを解放したから発展したのでしょうが、和歌は「テーマ」を決めてしまう。

清少納言の場合は、「悲しい」とか「さびしい」とか、見た景色の意味を定めることはせず、それが「ただ無性におもしろい」のだと言う。そういう方が清少納言らしいかな。歌は思っているほど真実だけ伝えるものでもないですし、また、伝えるためのものでもありません。

清少納言の表現は俳諧的と言われることもあります。どんどん言葉が出てきて、何々なものは何々……と次々続けていくところと、結びつけられてのことだと思いますが。
『コレクション日本歌人選 清少納言』で書きましたが、「それ」を「ただそのまま描きとってみせる」、清少納言にはそういう部分がありますね。

ある普遍的な真実について描き取る才能は、まさしくエッセイの先駆者たる清少納言の真骨頂ですね。

見ならひするもの。あくび。稚児ども。……

「あくびってうつるよね」と切り取ってみせるのは案外、難しい。聞けば「そうそう」となるけれど、初めて言うのは難しい。それを1000年も前に、「何でもないこと」や「一瞬の心の動き」を切り取るというのは、才能というか技術というか、彼女ならではのセンスでしょうか。

端的に切り取るというのはすごいですよね。それらが1000年前だったと言うのは不思議でもあります。

Q: 清少納言は他人をやりこめた話も書いていると言われていますが。

「やりこめる」というのも誤解です。彼女はどちらかと言うと、常にやりこめられていて、やりこめてはいないんです。清少納言が言い返したことこそ、相手が本当に言いたかったこと。彼女が言ってくれたことで、相手が喜んでしまう。相手は一本取られた格好なのだけれど、自分がその名言を引き出してやったのだと。一人勝ちしていることは一つとしてないんですよ。清少納言の心の持ち方と言葉の選び方は才能なんでしょうね。

清少納言は、定子の励ましの言葉がなければ、作品(『枕草子』)を完成させず、途中で筆を折っていかもしれません。

なき床に 枕とまらば たれか見て 積らむ塵を うちも払はむ

書き始める前から、『枕草子』という「タイトル」はすでに決まっていました。「私が近くにいて読んで(聞いて)あげなくても、きっと完成させなさいね」と、この言葉がなかったら、筆を折っていた。彼女はわりと心折れやすいタイプで、また単なる「おしゃべり」でもないようです。黙って世界を観察しているところがあって。

清少納言の心をほぐしてくれたのは定子。定子が、ちゃんとどうしたら良いか示してくれなければいけないような、ナイーブな人。

『枕草子』は定子が亡くなった後、仕上げたと思います。特に日記的章段はその死後の執筆だろうと。エッセイ風の段も含め、定子が登場する部分などは多く、その死後に書かれました。

芥川龍之介の「白」というお話、ご存じですか?白毛だった犬が、友だちの犬を見捨てて逃げた日、体中真っ黒になってしまった。飼い主の姉弟には黒くなった彼が「白」だとはわからず、「白」は叩き出され、放浪し、犠牲的な行いを重ねて戻ってきたときには白色に戻っていた……。シロは人間の言葉を理解して涙を流すんですよね。人間の言葉を理解して涙する犬のお話は『枕草子』の翁丸のエピソードにも似ています。つまり『枕草子』に童話の要素があることに気づかされるのです。定子は幼な子3人を残して逝ってしまいましたので、『枕草子』は残された御子たちのためのものでもあったと思うんですよね。

Q: 『枕草子』を読んだら、お母さんは良い人だったと思いますね。

そうですね。日記的章段の最後は、御子3人を“登場”させて終わります。定子晩年の日々はもう少し続くのですが、第三子の妊娠中、3ヶ月目にあたる5月5日が最後の場面。象徴的なシーンです。端午節における御子“3人”と母、そして後宮の人々……、御子たちにぜひ伝え残したいアルバムの1ページです。

Q: 『枕草子』で一番好きなシーンはありますか?

面白いのは、清少納言の「もの書き」としての意識が表明されているところです。『枕草子』にはちゃんと「あとがき」がついていて、そこで、人が書いたものをああだこうだと批判する方こそ、品定めされているのだなどと言っています。せっかくの作品が後人によって書き直されるのは残念だとか、ちらちら見える書き手としての意識を残しているのが興味深い。私が『枕草子』に引き付けられるのは、そういう時代を越えた感覚が共有できるところかな。ツボ、かゆいところに手が届くな……という。『枕草子』の一部が広まって(流出して)から、当時の貴族たちは、清少納言と話すとき、『枕草子』に書かれるかな?と思っていたかもしれませんね。
私もやはり、ものを書くことが仕事の中心なので、そういうコメントを見ると、1000年前の人にも親近感のようなものを感じます。言って良いことと悪いことがあるから大変と書く一方で、こんなもの(『枕草子』のことです)誰も見ないから何を書いたって構わないんだと開き直ってみせたり。当時もいろいろ大変だったのですね。1000年前に全部書いてくれています。

Q: 書き手の意識というのは、和歌の詠み手の意識と違うのでしょうか。

和歌が詠まれた本当の事情や思いというのは、「詞書」などをとおしても、あまり伝わっていない部分かもしれません。そこのところを書いてくれている『枕草子』は、まさに新しい形態の文学と言えます。想像以上に新しい、現代と変わらない感覚がつづられています。

Q: たしかに、『枕草子』は和歌の背景が書かれていて面白いです。

勅撰集などの和歌は「完成したもの」として存在しています。「詞書」など、読み解くためのアシスト的なものは添えられていますが、必ずしも、本当の事情ではないかもしれません。
『枕草子』は、こういう流れがあって一つの和歌なり、表現が生まれたという、一首出来上がったところの本当の事情について打ち明けています。稀有な作品です。

いろいろと、当時の実際のやりとりがわかるのは、『枕草子』の特別で、貴重なところですが、必ずしもそのようなものとして深く読み込まれてはいないので、誤解されている部分も多い。つい清少納言がやりこめていると思われてしまいますが、やりこめるタイプではないし、できない人ですね。

Q: どうして紫式部に悪く書かれてしまったのでしょうか?

紫式部は絶対に褒めない人ですよね。手放しでは。結局、逆説的なんだと思います。人の一番目立つ部分をちょっとけなしてみせているんです。対象人物の個性がかえって際立つ表現として、『古今集』「仮名序」の六歌仙批評と似ています。なぜ、そのように表現しているのかは、よく考えてみないといけませんね。

例えば、清少納言の漢詩の知識は、わざと崩しているところに意味があります。原典の漢詩句をそのまま引用したりせず、現在の状況に合うような表現に言い換えています。「いと足らぬこと多かり」と紫式部は批判していますが、知識が足らないのではなく、あえて足らない形で提示しているから、「今この時」における言葉となり、それはすでに単なる模倣ではない。

例えば、「香炉峰の雪は簾をかかげて見る」という白楽天の漢詩句。定子に「香炉峰の雪はどんなかしら?」と聞かれて、清少納言は何も言わずに御簾を高々とあげるのです。

白楽天の漢詩を知っていて、口で言わずに行動で示したので褒められたと、高校の授業などでは習いますが、原典のほうでは、簾をちょっとはねあげただけで、白楽天の部屋の簾は下ろされたままなんですね。

スガシカオの歌、「さよならホームラン」に出てくる「僕の部屋は今日も カーテンを閉めたまま」という歌詞と重なります。左遷された状況で、鬱々とし、外の景色を眺める気にさえならない。横になったまま、隅のほうをちょっとはねあげて一瞥しただけで、とても簾を上げるような気持ちにはなれない。
そこを清少納言は大転換しています。御簾を高々と上げ切って見せる。

「定子様のもとで、こうしてみな一緒で、わたしたちは今、ほんとうに心晴れやかに、しあわせです!」というのを、問いかけに即応する形で、難しい理屈でなく、瞬時に心のままに表現する。

原典どおりの行動ではないから、「いと足らぬこと」とも言えるけれど、そこにこそ引用の意味があります。むしろ、原典世界の心を尊重する行為とも言えるでしょう。単なる模倣ではない、新しい言動によって、もともとの詩にこめられた白楽天の気持ちも、より深く味わえるようになります。

それが清少納言の個性とも言えます。それを「足らぬ」と決めつけられてしまえば、先入観にもになりますよね。だけどある意味、一番いいところを逆説的に評価している、逆説的に褒めているとも言えるのです。

あえて足らぬことをやるというのは、女性だからできたことでもあると思います。漢詩をそのまま引用せずに、ちょっと変えてみせるというのは当時の女性のたしなみの一つ。工夫のしどころでもあります。

紀貫之の『土佐日記』も、「女性」として、「女性」の言葉で書く、という体(テイ)です。女性なら許されるんですよね、原典どおり「正確に」引用しなくても。男性がするとただの間違い(誤答)になってしまいますが。当時は女性の言葉の方に、一層、日本語としての可能性があったと言えそうです。貫之は、そこに目を付けたわけですね。漢語と和語とが融合した、新しい日本語の文章を創造するために。

Q: 他に影響を受けた本はありますか?

『枕草子』の研究をしながら、さきほど紹介した道元の『正法眼蔵』にたどり着いたときには、そのページから、偶然、祖父の古いメモが出てきました。研究をするようになって、ある時期、いろいろな本を開くと、ときどき祖父のメモが出てきて、同じところに注目している!と。後を追いかけているような気がしました。
『正法眼蔵』は現代語訳も出ていますが、原文はぜひ音読してみたい。そうすると、心に直接響くような形で理解できるかもしれません。

あとは、『田辺聖子の源氏がたり』なども、おすすめです。田辺聖子には『新源氏物語』がありますが、これは連続講座の書き起こしで、『新源氏物語』を補足するようなところもあって、本当にわかりやすく、愉快です。斬新な新しい解釈ということではありませんが、古典の文章の行間を埋める仕事だなと思います。これはとても創造的なことですね。

Q: 先生は『源氏物語』も研究されていますか?

はい。その主題や筋書き(プロット)、和歌の意味について、新しい解釈を提示しています。その経験からも、『伊勢物語』や『枕草子』をまず読んでみてから、『源氏物語』に取り組んだ方が、『源氏物語』の「素の顔」が見えるように感じます。
『源氏物語』から読み始めると、『源氏物語』にある意味、すっかり取り込まれてしまう。全五十四帖の「通読」にこだわらなくてもいい。解釈する上では、かえってバイアスがかかってしまう気もします。田辺聖子の本は楽しく「通読」をおすすめします。

例えば、『源氏物語』で唯一、誕生日が明らかにされている登場人物は「明石の姫君」で、誕生五十日目のお祝いが、5月5日に当たるように設定されています。その意図については、まず、『枕草子』を読み解くと、わかります。つまり、先ほどお話した定子後宮最後の場面、5月5日の様子を描いた章段ですね。
明石の姫君の誕生については、端午節をめぐるその「符合」。天に予祝された子として、親たる源氏にわが宿命を確信させる存在であり、その後の源氏の将来を予想させる「伏線」になっているんです。『源氏物語』だけ読んでいたのでは、わからないプロットです。

Q: 今後は、『伊勢物語』や『枕草子』を中心に研究していく予定ですか?

もともとは舞台芸術に興味があって、能や狂言など伝統的なものから、日本の現代の文化、新しい前衛的なものまで含めて興味があって、そういうものを紹介する仕事に憧れていました。ですが、多くの舞台芸術が、古典(昔話)と無縁でないと知って、古典の専門家になりたいというより、日本の文化について評価するには、古典に詳しくなければ……との理由で、卒業論文で古典(『枕草子』)を選んだという経緯があります。

古典には、未解明の部分や謎がまだまだたくさんありますから、『枕草子』や『源氏物語』を中心に、今後も私らしい解釈研究を展開していきたいと思っています。現代の社会状況や文化の様相も常に意識しながら、研究を進めていくつもりです。
古典を研究しながらも、「今」のことは一番の問題として考えていきたいと思っています。

Q: 今日は貴重なお話をありがとうございました。

こちらこそ、ありがとうございました。ぜひ古典は自由に読んでみてください。私は、学生から日々、大いに刺激を受けています。学生はいつも、的確な指摘をしてくれますよ。私に質問することで、謎のありかを示してくれ、授業の感想を述べつつ、もっとも公平な評価を与えてくれる。研究者として、教壇に立ち続けることの大切さを日々、実感しています。

ありがとうございました。


和洋女子大学
圷美奈子先生

【おすすめ書籍】

うた恋い。~超訳百人一首~ 

うた恋い。~超訳百人一首~ 

杉田 圭/渡部 泰明/メディアファクトリー

うた恋い。~超訳百人一首~<2> DVD付特装版

うた恋い。~超訳百人一首~<2> DVD付特装版DVD付特装版

杉田 圭/渡部 泰明/メディアファクトリー

伊勢物語(岩波文庫) 

伊勢物語(岩波文庫) 

大津有一/岩波書店

王朝文学論~古典作品の新しい解釈~(新典社研究叢書) 

王朝文学論~古典作品の新しい解釈~(新典社研究叢書) 

圷 美奈子/新典社

新しい枕草子論~主題・手法そして本文~(新典社研究叢書) 

新しい枕草子論~主題・手法そして本文~(新典社研究叢書) 

圷 美奈子/新典社

新樹の言葉 改版(新潮文庫) 

新樹の言葉 改版(新潮文庫) 改版

太宰 治/新潮社

現代文訳正法眼蔵<1>(河出文庫) 

現代文訳正法眼蔵<1>(河出文庫) 

道元/石井 恭二/河出書房新社

現代文訳正法眼蔵<2>(河出文庫) 

現代文訳正法眼蔵<2>(河出文庫) 

道元/石井 恭二/河出書房新社

現代文訳正法眼蔵<3>(河出文庫) 

現代文訳正法眼蔵<3>(河出文庫) 

道元/石井 恭二/河出書房新社

現代文訳正法眼蔵<4>(河出文庫) 

現代文訳正法眼蔵<4>(河出文庫) 

道元/石井 恭二/河出書房新社

現代文訳正法眼蔵<5>(河出文庫) 

現代文訳正法眼蔵<5>(河出文庫) 

道元/石井 恭二/河出書房新社

コレクション日本歌人選<007> 清少納言

コレクション日本歌人選<007> 清少納言

圷 美奈子/笠間書院

蜘蛛の糸・杜子春 改版(新潮文庫) 

蜘蛛の糸・杜子春 改版(新潮文庫) 改版

芥川 竜之介/新潮社

土佐日記(角川ソフィア文庫) 

土佐日記(角川ソフィア文庫) 

紀 貫之/西山 秀人/角川学芸出版

土左日記(岩波文庫) 

土左日記(岩波文庫) 

紀貫之/鈴木知太郎/岩波書店

新源氏物語<上>(新潮文庫) 

新源氏物語<上>(新潮文庫) 

田辺聖子/新潮社

新源氏物語<中>(新潮文庫) 

新源氏物語<中>(新潮文庫) 

田辺聖子/新潮社

新源氏物語<下>(新潮文庫) 

新源氏物語<下>(新潮文庫) 

田辺聖子/新潮社

【関連商品】

国宝 源氏物語繪巻~至宝日本の絵巻物完全復刻シリーズ~<全4巻> 

国宝 源氏物語繪巻~至宝日本の絵巻物完全復刻シリーズ~<全4巻> 

徳川 義宣 監修/木下 久一郎 監修/丸善出版

紫式部日記繪詞~至宝日本の絵巻物完全復刻シリーズ~<全4巻> 

紫式部日記繪詞~至宝日本の絵巻物完全復刻シリーズ~<全4巻> 

秋山 光和 監修/丸善出版