自然史博物館の始まり
自然史博物館の歴史は、1753年に医師であるハンス・スローン(Sir Hans Sloane, 1660-1753)の膨大な個人コレクションを英国政府が購入した時にまでさかのぼります。スローンのコレクションをもとにして、大英博物館が作られました。
当時の多くの医師と同様に、スローンは自然史、特に植物学に興味がありました。彼の植物標本コレクションは337巻にもおよび、その他に美術品、書籍、貝殻、骨、鉱石、化石などが集められていました。そしてそれらの自然史コレクションと各国文化のコレクションはブルームズベリの大英博物館の建物に収められました。
しかし、これらのコレクションが一時から急速に増えるにつれ、収蔵場所をめぐる問題が深刻になってきました。ロバート・スマーク設計による新しい建物が1847年に開館しましたが、1860年代には再び状況は厳しくなっていました。腐敗しやすい自然史部門の収蔵品は特に保存が難しく、毎年、害虫や腐敗によって標本が失われていました。
新しい博物館の建造
1856年に自然史部門の部長に就任したリチャード・オウエン(Sir Richard Owen, 1804-1892)は、収蔵場所の問題について自然史コレクション専用の博物館を建てる以外に解決法がないと決断し、サウス・ケンジントンの空き地を購入し、新しい博物館の建造に着手しました。このドイツ・ロマネスク様式の建物の設計にあったったのは、建築家のアルフレッド・ウォーターハウス(Alfred Waterhouse, 1830-1905)です。建造に1873年から1881年までを要した建物は、テラコッタ装飾のほどこされた、高さ250メートルの正面に、壮麗な表玄関、尖塔などがついており、内部は5階建てで、1階から3階が展示場で、正面および側面と道路の間には庭があります。ロンドンの『タイムズ』紙はこの建物を「自然の宮殿」と呼びました。
正面のテラコッタ装飾は、動植物や化石の浮き彫りが入れられたベージュと青のタイルからできています。
ウォーターハウスは設計を決めるにあたってオウエンとよく話し合い、建物の西側を現存動物、東側を絶滅動物の展示場にし、各部の装飾もそれに沿ったものを用いました。そしてこの自然史博物館は1881年に公開が開始されました。
自然史博物館の構造
来場者は今でも、開館当時と同じ錬鉄製の門を通って入場します。階段をのぼり、大聖堂のような入口に行き着きます。残念ながらこの入口は身体障害者や乳母車を持った家族連れのための配慮がなされていない時代の設計ですので、その点ではやや不便があります。しかし現在ではそうした方々のために別の入口が設けられています。
中に入った来場者が最初に目にするのが大聖堂のような中央ホールです。オウエンは信心深いクリスチャンで、創造の神秘は宗教的な雰囲気の中で展示されるべきであると考えていました。中央ホールの内装は博物館のなかでも特に装飾的です。高い天井には複雑な植物模様が入れられ、床は小さな石のモザイクになっています。このホールは電気照明の到来以前に設計されたため、展示品を照明するため自然光を多く取り入れられています。
展示方針の時代的変化
1960年代までの展示方針は、出来る限り多くの標本を展示することでした。展示品のラベルに書かれた説明は多くの場合、来場者にとって極端にこみいっているか、短かすぎて役に立たないものが多くありました。
生物の多様性について公衆を啓蒙しようという博物館の意図は立派なものでしたが、テレビ時代には時代遅れとなっていたのです。
1970年代に自然史博物館は展示について新たな方針を打ち出しました。旧来の展示に代わり、生物の多様性を明らかにするとともに、生命の進化など生物学の基本を説明する、より娯楽性に富んだ新しい展示が目指されるようになったのです。
この方針をもとに1977年にオープンした「人間生物学ホール」(Hall of Human Biology)を皮切りに、楽しみながら学べる、対話型の展示などがとりいれられるようになりました。
さらに1980年に自然史博物館が入場料を取るようになると、新たな収入源が発生し、同時に展示に対する来客の期待も高まりました。これを受けて、来場者の興味を引くように多くの展示の模様替えが行われました。例えば節足動物(蝶、さそり、ざりがに、ゴキブリなど)の展示場には「Creepy Crawlies」という子供向けの名前が付けられました。この展示には家庭にすむ害虫を見せるモデルハウスもあり、かつての実物標本に代わって、ノミやシラミの巨大なプラスチック・モデルが展示され、来場者に大変人気があります。
1. 自然史博物館の歴史について 2. 人気のある展示会場・イベントについて 3. 自然史博物館の内部について 4. 自然史博物館の活動と未来 |
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