β型帝国主義の基盤にある入超構造に関する批判点はどのような意味を持っているのでしょうか。
武田 山崎隆三さんのように貿易を議論するのであれば、あるいは対外関係の事実から出発するのであれば、その貿易の問題が実際には経済問題としてクローズアップされながら、最終的には純粋に経済的な合理性によって解決されることがないということに留意する必要があります。国の威信とか、政権安定性とかの経済的な問題を超えた政治的な要請によって最終的には妥協がはかられるからです。それは、世界貿易・国際貿易によって得られる貿易の利益を明らかにゆがめるかもしれないが、その反面で国内的にはある種の安定性をもたらすかもしれないし、国内に対立を生むかもしれない。いずれにしても貿易を中心にした対外関係は経済問題でありながら、経済問題として純粋には取扱いができない政治経済的な問題だということです。
そのために、何か貿易上の対立点が侵略の最終的な発火点になっているように見える。実際、きっかけにはそういう面がある。しかし、侵略が貿易問題から説明できるわけではない。貿易摩擦が侵略戦争になるとしたら、1960年代以降の日米関係は何度も戦争をしなければならなかったはずでしょう。そうした論理は現実的ではありません。
β型帝国主義論では、金融的従属は、貿易の入超構造に規定されていると考えている。簡単に言えばそういうことですね。その時に、入超構造が変わりようのない構造だということをいってしまったら、それは山田盛太郎『日本資本主義分析』が提示している資本主義の「型の編成」と同じ論理であって、山田分析を段階変化が捉えられないと批判している山崎さんたちも、批判している相手とほぼ同じ論理に立っていることになる。
これが私のβ型批判の第1の理由だったわけですが、質問されている貿易の入超構造についても、本当に構造的なものなのかが疑問だった。これが第2の批判点です。構造的だというのは何か外側から大きなショックでも与えられない限り変わりようがないということでしょうから、それを説明する必要があるわけですが、指摘されているのは明治期を通して貿易収支は赤字基調で、外資の導入がなければ対外関係は破綻したであろうという事実です。
これに対して、私は事実として変わりつつある、入超はある時期の過渡的な現象だと捉えていた。つまり、貿易構造は何らかの要因で変化しつつあるのだけれど、ある時期までは入超を余儀なくされる。その時には深刻な問題となるが、それが克服できないとはいえない。別の言い方をすると、β型論で考える限り、入超構造を変化させるような経済的なメカニズムを内包していないことになる。これに対して私の場合には、変えるだけの内在的な力はあるのだけれど、最終的に入超という現象を1920年代にはまだ解決していない。そのどちらが正当な評価かで論争していたのです。
三和良一さんの研究や私が『1920年代の日本資本主義』に書いた「国際環境」という論文で具体的分析をしてみると、1920年代前半には、原料品の貿易のバランスが崩れるのと、食料品輸入が増大しているのとの2つの要因に入超の原因を分解できる。ところが、20年代の後半になると、食料品の輸入増加は続いているが、工業製品貿易の収支がバランスし始める。5年くらいでこれほど急激に変わっているものを、なぜ構造的というのか、とても納得できないということです。これが実証的な批判です。
それに外資が輸入された意味が問われていないことも問題でした。それがもし積極的な意味をもつとすれば、国内の投資資金の不足を補うような資金が外国から供給されて投資が拡大することになるわけですから、その結果は国内産業の競争力を上昇させるはずです。そうすれば貿易収支を改善することになるはずです。もし外資導入を経済の論理だけでつきつめて考えていけば、入超構造を改善することはあり得る。もし、それが改善につながらないとすれば、外資導入は生産的でないところに使われていると考えざるを得ない。そう考えてβ型批判の論文で私は皮肉を言っていています。もし入超が構造的であり外資依存が克服できないものであるとすれば、せっかく導入された外資を軍事費など費消して生産力上昇につながらなかったのにちがいない。そうだとすれば外資導入をもたらしたのは軍事的半封建的資本主義のはずだから、山崎隆三説は山田説と同じだと書いています。いずれにしても、貿易の入超というのは何らかの条件の中で過渡的に生じているものと考えないと資本主義的な経済発展を考えることもできないのです。
β型帝国主義論は、入超をカバーするためには外資が必要で、この入超が重大な構造的な欠陥と指摘している。分かりやすく説明すると、たとえばある家庭に、もう歯止めのきかない放蕩息子が一人いて、とにかく家に金さえあればどんどんお小遣いとして使ってしまう、あるいはギャンブルで使ってしまう。そのために、その家庭では稼いでも稼いでもずうっと貧乏なままだ。こういう構造的な問題をその家庭では抱えている場合には、その放蕩息子をどうコントロールするかということが問題になる。私は、その放蕩息子が陸海軍だとすれば、山田説も山崎説も同じだといっているわけです。
たまたま子供の成長のプロセスでいまは教育費がかさんでいる。これに対してそのために奥さんがパートに出ないと家計がバランスしない。だけど、その教育成果、投資が成り立って、その子供が就職して稼ぎを少しでも家に入れるようになる。そうならなくても、支出がゼロになってくれればいい。輸出産業にならなくても、内需産業化すれば、その家計はバランスして、パートへ出ないでもう少し余暇を楽しめるかもしれない。
そう考えると、後者は明らかに過渡的な変化です。一時的な構造問題と言ってもいいが、全く変わらないというようなものではない。ところがβ型論ではもし急に外資がとぎれたら、侵略的になるという。比喩的に言えばパートの口が切れて困ったので、泥棒に入ることにしました、というわけです。しかし、泥棒に入るかどうかは、経済合理性とか経済システムの問題ではなくて、人間の問題です。支出を減らそうとしたっていいわけで、子供が一時的に休学してバイトをし始めるかもしれない。何でもいい。解決の仕方はいくらでもある。それを、なんで泥棒に結びつけるか、これが分からない、そんな気分なのです。
武田説と橋本説の違う点はどこにあるでしょうか。
武田:この点については、いずれ橋本さんの『大恐慌期の日本資本主義』を素材に詳しく説明したいと思います。とりあえずここでは次の点だけは指摘おきましょう。まず、橋本さんの方がたぶん厳格に宇野理論を適用し、生産力的基盤としての重化学工業を問題にしています。つまり、ある国の経済構造を特徴づけるような生産力的基盤、要するに産業構造を考えた時に、その産業構造でのリーディングセクターで独占が形成されるというのがもっとも素直な評価の仕方だと考えている。そういう意味では、1930年代になってはじめて鉄鋼業などの重工業が基軸になる産業構造ができたと橋本さんは理解している。これは、橋本さんの「内部循環的拡大」論につながっています。これに対して、私はマーケット・メカニズムが変わることのほうが重要だと考えている。そうした視点で1920年代末までに産業独占が普及するだけでなく、労働力市場や資本市場の変化が進展するともに調停法体制という形で支配構造の再編が進むと捉えている、そういう違いがある。
もう一つは、鉄鋼業の位置づけとそこでの独占形成について評価が分かれている。私は岡崎さんの鉄鋼カルテルの評価を支持している立場で、自分自身でも調べて見ても鉄鋼業のカルテルの有効性を認めても良いと考えているのですが、橋本さんはその点については必ずしも明示的には異論は述べていませんけれど、1920年代のリーディングセクターは電力であり、鉄はまだ多軸的な産業構造の周辺にいると理解しているので、帝国主義段階への移行の時期についての見解が完全に分かれています。あまり突っ込んでこれ以上は議論していないのですが、これ以上は「違うねえ」って話がそのままになって議論していない。多少違うところを残しておいた方がいいかもしれないので。
以上