日本経済史・経営史:研究者のひろば コラム

異端の試み

第1回(1) 帝国主義の経済構造について(1)*

武田晴人

第1回(1)はじめに/背景としてのファシズム論・国家論
 (2)帝国主義段階研究前史/帝国主義侵略と経済的内実
 (3)綿業帝国主義論
 (4)β型帝国主義論とその批判

*この講義録は1996年5月31日、6月7日に「β型帝国主義論」と題して行われた講義の速記録に加筆したものです。講義は、以下のテキストを用いて行われました。

 

はじめに

 テーマは、1980年前後に日本経済史研究でさまざまな議論が展開した「帝国主義」についてです。基本的な問いは、「帝国主義とは何か」です。漠然としているかも知れませんが、より正確に言えば、伝統的な経済史学のなかで考えられてきた資本主義の発展段階としての帝国主義段階とは、どのような特徴を持つのかということです。この問題に深く関連するのが独占資本主義という捉え方です。その両者の関連を、私は、帝国主義段階を議論する上でもっとも重要な概念の一つに独占があると考え、2つの論点を連携させて考えているのですが、研究史上では必ずしもこの点は明確ではありません。

 帝国主義を政治的な概念としてみると、植民地支配などに強く関連しており、そうした視点を重視した場合には、経済発展の特定の段階・時期を指す概念としては不適切になります。こうした批判は、自由貿易帝国主義論などで表明されていますし、その指摘の通り植民地支配は、産業革命の時代に先行して開始される歴史的な事実に誰も異論を申し立てることはできないからです。

 そのことを十分に認識したうえで、ここでは帝国主義を資本主義の発展段階を示す概念として用いています。その理由は追々説明していくことにしますが、1970年代後半から80年代にかけて日本経済史の研究は、両大戦間期の研究に重心を移して、帝国主義段階や独占資本主義を盛んに議論していました。そうした議論の中で、新しい問題提起として論争の的になったのが、山崎隆三『両大戦間期の日本資本主義』で提唱された「β型帝国主義論」でした。ここでは、それをきっかけとして、主として『歴史学研究』誌上で展開された論争を中心に帝国主義段階論が提起した方法的な問題の研究史上での意義を考えていくことにしたいと思います。

 

背景としてのファシズム論・国家論

 β型帝国主義論が出てくる背景の一つは、国際的契機の重視という当時の研究潮流です。ちょうど高度成長がかなり進展して開放経済体制への移行が1960年代後半から始まり、日本経済の国際化が関心を引いていた時期だったからです。つまり、一つの国を分析するときに、外国との関係を視野にいれなければ不十分だと考える時代になっていました。研究史を振り返ってみると、それ以前の研究に比べると、日本の産業革命にしても*、その後の経済発展にしても国際的連関について経済関係を含めて問題にしなければいけないと考えるようになっていたのです。だから国際的契機とか、世界的な編成とかの視角を重視する限りでβ型帝国主義論は、当時の研究がめざしていた「ある方向」をかなり極端に追い求めたものだったのです。

 β型帝国主義論が出てくるもう一つの背景は、ファシズム論ないしは十五年戦争論です。こちらは経済史というよりは歴史学全体の流れから出てきたものですが、十五年戦争という言葉が定着し始めるのもちょうどこの時期です。それまでは満州事変、日中戦争、太平洋戦争と区分して捉えていたのを、1931年から45年にいたる15年間にわたる長期の戦争の時代ととらえるという考え方が出てきました。その考え方は、一方では経済史研究における国家独占資本主義論と対応した議論ですが、他方では戦争への道をどう捉えるかという歴史学の広い問題意識から出てきたものです。

 歴史学研究の分野では、この当時、山口定さんとか安部博純さんとかが天皇制ファシズムとは何か、ファシズムとはそもそも何であったかを議論し始めていました*。つまり、ファシズムの同時代性に注目し、ドイツとイタリアと比べてみよう、比較したうえで日本の独自性は何か、あるいは日本を含めた共通性・普遍性は何かをファシズム概念で捉え直してみようという研究潮流が出てきたのです。この流れに呼応するように、経済史でも十五年戦争がなぜ起きたのかを説明できるのかという問題が意識されるようになります。この問題提起にダイレクトに応えようとしたのが、β型帝国主義論だったのです。

 ただし、この歴史学の問題提起には、かなりねじれた関係が含まれています。一般的にいってファシズムは、大衆民主主義とか大衆化された社会状況を前提にしています。これが欧米におけるファシズム研究の根底にある社会状況の認識であり歴史認識です。そういう出発点から考えてみると——大正デモクラシー情況をいったん括弧に入れておいてのことですが——大衆民主主義という基盤と、天皇制絶対主義という、それまで日本近代史研究の体制認識なり国家認識とは、明らかにずれがある。端的に言えば、近代国家以前の過渡的な国家形態である絶対主義体制と評価されている国家体制の国に、なぜ近代的な国家を経過したあとの大衆民主主義化した時代に生じる政治システムがつくられたのかという難問が生じます。そこには国家体制の理解についての明らかにずれがあります。

 それ故、明治維新で天皇制絶対主義が成立したことを認めたうえで、ファシズムが成立する1930年代までの間のどこかに、日本が近代国家に変わるところがあるという捉え方も出てきます。この議論の特徴は、すべての国が基本的に同じ道をとる、という単線型の発展を想定していることです。こういうふうにこの頃の研究者の多くは考えて、そういう前提で議論をしていました。この前提に立つと、大衆民主主義状況のなかで生まれる政治形態としてファシズムが成立する以前に、近代的な民主主義的国家が成立している、あるいは市民社会が成立しているはずで、それを真正面から論じ始めると天皇制絶対主義という捉え方と整合性をとることが難しくなる。そこで、大正デモクラシー期に擬似的にせよ立憲君主制に基づく近代的な政治体制への移行が進展したというような議論が出てきたわけです。これが一つの解答でした*。

 解答のもう一つは、日本のファシズムは、ヨーロッパ型のファシズムと全く違う「擬似ファシズム」であり、天皇制絶対主義のもとでの強権的な統合だというものです。これは「上からのファシズム論」と呼ばれました。これは事実上、国際比較という点では、ファシズムとしての普遍性を追求することを断念すること意味していました。

 このような歴史研究の全体状況からは、国家形態あるいは国家の具体的なあり方とその本質的な規定を、日本の近代社会の歴史的な変化、段階的な変化を踏まえてきちっと捉え直さなければならない、そうでないとこのような問題にも答えられないと考えられるようになってきます。ファシズム論に対して明快な答えを出すためには、段階的な変化の認識、段階的な変化をとらえる視角が重要だと考えられるようになってきたのです。

 ファシズム論には、ここではこれ以上は立ち入りませんが、東大出版会から刊行された『大系日本国家史』というシリーズで、中村政則さん、鈴木正幸さんなどがこの問題と格闘することになります。これと並行して経済史の研究でも段階的な認識の重要性と、国際的契機あるいは世界的編成を論じることの重要性に留意する研究上の潮流を反映してβ型帝国主義が出てきたのです。付け加えておくと、この時期の国家論的な議論は、マルクス主義的な経済決定論の影響が強く、型にはめた議論だったという意味では大きな問題をはらんでいたことは間違いありません。しかし、同時進行する研究分野で、このような議論が進んでいることは、ファシズムをどのように捉えるのか、というような問題を考えるうえでは無視できないことであり、新しい議論をするためにも段階的な変化をどのように捉えるかが問題になっていたということになります。

第1回(1)はじめに/背景としてのファシズム論・国家論
 (2)帝国主義段階研究前史/帝国主義侵略と経済的内実
 (3)綿業帝国主義論
 (4)β型帝国主義論とその批判