西川博史さんの「綿業帝国主義論」は、明示的に宇野弘蔵さんの段階論を使って、帝国主義段階のロジックを重化学工業化、固定資本の制約、独占形成、過剰資本の形成、資本輸出から論じようというものです。
宇野さんの帝国主義段階についての認識は、次のようなものです。産業革命を経た自由主義段階の産業資本は、自由な市場競争のもとで経済発展を遂げる。資本の移動も比較的自由であり、労働の移動にも自由があるからですが、労働力の供給には社会的な限界があり、技術水準に大きな進歩がなければ、この限界にぶち当たると賃金上昇によって資本の蓄積が阻害されて資本蓄積が停止してしまう。だから、10年ごとの恐慌を介して生産力の限界が克服される。宇野理論の独特の表現ですが、この制約条件を「労働力の商品化の無理」と言いますが、この「無理」のために発生する労賃上昇は恐慌によって相対的な過剰人口が作り出されることで解決される。ところが、重化学工業が発展して産業構造が変容してくると、このような自由主義段階のような周期的な恐慌は資本蓄積にとって大きな問題になる。なぜなら、恐慌が発生して企業破綻に追い込まれると、それまで蓄積された資本価値が破壊される、大規模な固定資本が一挙に資本的な価値を失ってしまうからです。
固定資本の制約があると、資本は、自ら価格をコントロールすることによって景気変動を調整しようとする。もう少し具体的にいうと、固定資本の制約から逃れるために恐慌期に発生する価格の乱高下を避けようと独占組織が登場する。しかし、その結果、景気変動が調整されると、恐慌を介して生み出されていた相対的な過剰人口によって解決されていた労働力の商品化の無理、つまり労働力の供給面での制約が解消できない。しかも独占が形成され、これを維持すると、その部門内では投資を制限しないと独占組織の機能が発揮できなくなる。こうして産業分門の中心部に次々と独占組織が作られていけば、国内に有利な投資先がなくなり、投資先を失った過剰資本が形成され、これが資本輸出されることになる。資本輸出をするためには、帝国主義的な支配がその安全装置として必要だというロジックになっている。
これが宇野理論で定式化されたマルクス経済学の帝国主義段階論です。それなりに美しいロジックですが、このシェーマに添って日本について説明したのが柴垣和夫さんの『日本資本主義の論理』(UP選書、1971年)です。柴垣さんは宇野帝国主義段階論のロジックに忠実に従いながら、産業構造が重化学工業化して固定資本の制約が生じた第一次大戦後に独占が形成されていくと捉える。この独占形成には日本では2つのタイプがあって、一つは資本独占を中心とする財閥、もう一つは産業独占を中心とする紡績業独占資本で、後者が同一産業部門での過剰資本形成に基づいて資本輸出を代表するような金融資本の消極的なタイプになり、前者が資本独占を構築し、資本の商品化をすすめて、帝国主義段階の金融資本の積極的な典型、支配的資本となるという議論を展開します*。
*この積極的タイプと消極的タイプという構図は、宇野段階論が帝国主義段階における金融資本の積極的なタイプをドイツに、消極的なタイプをイギリスに求めたことを転用したものです。
それに対して、西川博史さんが、「綿業帝国主義」という言葉を使って、柴垣説をさらに徹底していきます。西川さんの議論は、帝国主義=侵略という立場に近く、侵略戦争の要因となる経済的な問題としての資本輸出と、これをめぐる対立を決定的に重要だと考えています。もちろん、この議論は帝国主義段階の資本蓄積を問題にするという意味ではすぐれて経済的な視点に立っています。その上で、柴垣説は宇野理論の機械的な適用であり、日本の経済実態に即していないと考えて、第一次大戦後の1920年代における日本の産業・貿易構造に即して問題を検討すべきだと主張する。
ただし、西川説には重要な問題の限定があります。西川さんはその点では宇野理論に忠実に私的資本の蓄積様式を明確にすることが重要であり、国家資本などを対象からはずしてしまう。資本輸出の具体的なあり方を実態に即して議論するためには、国家資本の位置も重要なはずで、そうでないと満洲の問題が説明できない。「実態に即して」分析すべきことを主張している西川さんの立場からみると、明らかに矛盾したものだと思いますが、彼はそうしたかたちで現実の国家資本輸出の重要性を分析対象の正面から外してしまいます。
国家資本、国家セクターの部分を切り離すと、資本輸出を担っているのは紡績業です。紡績業では、大戦ブームの利益を持ち越して、膨大な過剰資本が形成され、在華紡と呼ばれる中国市場への直接投資が展開する。その基盤は、大日本紡績連合会を中心とするカルテル活動のゆえに国内へ再投資の余地が小さいことによる過剰資本形成だと説明する。
他方、資本輸出を担う紡績業が日本の産業構造・貿易構造のなかでどのくらいのウエイトを占めているかというと、少なくとも製造工業のなかでは最大の部門である。それは雇用者数の指標でみても資本金額などの指標でみても紡績業以上に主要な産業部門はない。輸出についても生糸をのぞいては、綿工業のウエイトは一番大きい。輸入についても綿花の輸入が非常に大きい。つまり、紡績業の動向が日本の産業構造にも貿易構造にも非常に大きな影響を与える位置にある。それ故、紡績業こそがこの時期の経済構造の中核にあって資本主義経済全体を支える機軸産業であり、紡績資本こそ支配的資本となると同時に日本の帝国主義的な侵略に繋がる対外投資を支えているということになる。
実は西川説は宇野段階論の論理の前半の重要な部分を括弧に入れています。つまり、産業構造の重化学工業化は問題にしていない。重要なのは侵略に繋がる資本輸出が行われることだというのが彼の議論です。そのためには独占が成立していればいいので、独占が成立するために重化学工業化が基本的な前提、要因ではないというわけです。具体的に日本の事実に即して忠実にみていけば、綿業が重要だというのが一番素直な答えだというわけです。ありもしないとは言わないが、まだまだ非常に競争力の弱い重工業をとりあげて、産業構造の重化学工業化から帝国主義を論ずる方がおよそひねくれている。先進工業国における段階的な変化から抽出された特徴を探している、一種の「犯人探し」の論理にすぎない。これが西川さんの問題提起だった。