綿業帝国主義論につづいて、1978年に山崎隆三さんを中心とした研究グループによってβ型帝国主義論です。この2つの発想は論理的には共通性が高いと思います。つまり、外の関係をまず重視する。あるいは戦争とか侵略を説明しなければいけないという論理的な要請が強いかたちで問題が設定されている。だから議論が外側から発想される。
西川さんの綿業帝国主義論も対外侵略戦争を、経済学のツールをつかって経済史的に説明する場合には、資本輸出がキー概念だと考えている。これに対してβ型帝国主義論では、十五年戦争がなぜ起こったかが出発点となる。
そして、世界大恐慌の中で日本の世界編成上の位置が変わったからではないか。それでは、その変化を説明してみよう。第一次大戦期から20年代、あるいはそれ以前の世界編成のなかでの日本の位置はどうだったかを論じることになります。山崎隆三さんは山田盛太郎『日本資本主義分析』の批判的な継承を意図して、産業革命期の軍事的半封建的な資本主義という規定を受け入れたうえで、昭和恐慌前後に日本資本主義が構造変化を遂げるという構想の下に、議論を組み立てています。基礎になっているのは、産業資本確立期の日本が対外的には「金融的従属」という特徴を持っており、そのような対外関係が世界大恐慌で崩壊したことが、軍事的な侵略へと駆り立てることになったと捉えています。この金融的に従属する位置にあるという捉え方、つまりβ型という規定は、レーニンが『帝国主義論』を執筆するうえで作成した「ノート」の中に出てくるものです。一流の帝国主義をα型として、これに対して二流の帝国主義がβ型というわけです。山崎説以前にも安藤彦太郎『満鉄:日本帝国主義と中国』(御茶の水書房、1965年)で参照されていますが、山崎説では、産業革命期の日本が貿易収支入超のために外資輸入が不可欠であったことが強調され、これによって金融的従属という規定が与えられています。そして、世界大恐慌によって国際金融体制が大混乱に陥り、外資の導入が不可能になったことから、資源確保や市場確保などを軍事的に追求せざるを得なかったと、金融的従属の崩壊から十五年戦争の必然性が説明できるというわけです。
この議論が登場したとき、研究者の間で注目され、議論を呼ぶことになりますが、私はそもそも経済史で戦争の必然性を説明できるのかという点に疑問を持ちました。このような経済決定論的な捉え方には同意できないというか、——本音レベルで言えば、戦争は人がするもので、経済過程から必然性まで説明するのは、たとえば反戦運動は無意味だというようなものだから——歴史認識として不適切だと思うのです。
それだけでなく、入超構造から金融的従属を主張する論理にも疑問がありました。貿易収支の入超構造を強調する議論は宿命論的で、たとえば高度成長期の日本が貿易収支の天井を抱えていた状態(つまり放任すれば貿易赤字になりやすい状況)から10年余で脱却した歴史的な事実を説明できなくなります。だから、それが克服しがたい構造的な特徴であることを論証できなければ、この論理は成り立ちませんが、そうした説明はありませんでした。むしろ、論証が足りないところは、レーニンの権威に寄りかかっている——こういう権威主義的な議論を私は単に嫌いなだけですが——と思いました。帝国史議論の執筆のためのノートに、つまり完成した帝国主義論にも採用されなかったような、メモのようなものを神棚にまつるように読み込むことに意味があるとも思えなかったのです。こうした思いから書いたのが、『歴史学研究』482号の論文であり、単に批判するだけでは不十分だから、それでは帝国主義段階への移行を私はどのように考えるかをまとめたのが486号の論文になります。後者は1979年の歴史学研究会大会近代史報告では尽くせなかった議論も含めて、やや方法的な観点から問題を提起し、それに添って1920年代の日本資本主義をどのように捉えるかを試論的にまとめたものです。
β型帝国主義論については、私だけでなく何人かの論者が批判を展開しています。批判の方向の一つは、β型帝国主義論は「帝国主義段階」を論じていないということにあります。橋本寿朗さんとか私は、日本帝国主義が帝国主義たるゆえんについて経済学的な観点から問題にしていた。これとは異なって、侵略戦争や植民地支配をしているということから帝国主義を規定できるという立場に立つとしても、「β型帝国主義論」は十五年戦争によってはじめて日本が帝国主義となったと言う主張でないとすれば、帝国主義として二流の国家が「金融的従属」という支柱を失って戦争に突入することを説明するものと受け止める以外にはなく、そうだとするとなぜ帝国主義といえるのかは、説明されていないことになる。つまり、日本は15年戦争ではじめて侵略戦争に乗り出したとすれば、日露戦争などは侵略ではなく、現に開始されている朝鮮や台湾の植民地化はどう評価するのかという問題が残る。これでは何年か前にやっていた議論を対象とする時期をずらして再現していることになります。
帝国主義日本の経済的内実を捉えようという問題提起以後、私たちは、そこで独占資本主義論として議論されていた問題群を、どちらかといえば宇野段階論にそったかたちで整理し直し、新たな視点を加えて段階的な変化を議論すべきだと主張しています。この立場からも、昭和恐慌は重要な時期区分の画期かどうかは問題でした。そうした関心もあって独占の確立期は、第一次大戦期なのか、1920年代末か、1930年代かというような議論していました。結果的には帝国主義的な経済構造の確立はいつかという論点に関して橋本さんと私の意見は分かれていきますが、この点は別の機会に説明します。
この時まで、多くの研究者が、大内力先生が主張した1931年の管理通貨制移行によって国家独占資本主義へ転換するという議論を念頭においていました。つまり、昭和恐慌は国家独占資本主義への移行の画期であることについて、緩やかな合意があったのです。この点について講座派に近い中村政則さんや大石嘉一郎さんは、日本では典型的な意味での国家独占資本主義は戦前期には成立せず、戦時国家独占資本主義(戦時国独資)になる主張していましたが、この議論でも30年から31年が時代の切れ目の1つだと考えていました。
従って、帝国主義段階論として昭和恐慌に注目するのは、帝国主義段階への移行を国家独占資本主義への移行との二重の過程として捉えるか、そうでなければ、それ以前の時期に帝国主義への移行を考えるということになります。今から考えると、典型的な「単線型の経済発展論」——つまりすべての資本主義国がほとんど同じ経路と段階を経て経済発展をするという考え——に拘束されていますが、そうした捉え方の中で経済的な構造変化を明らかにする分析方法が研ぎ澄まされていく必要性を感じていたのです。
つまり、1920年代と30年代の間に段階的な区切りがあることについて認識は一致しており、段階的変化を議論し、30年より以前どこかに構造変化があるのかを議論していた。だからβ型帝国主義論に対しては、ファシズム論とかの歴史研究の潮流とか十五年戦争論に対応する意味では非常に重要な問題提起ではあったようにも思いますが、経済史研究者としては、今更なんだという感じがあって、内部的な構造変化をきちっと議論すべきだという点を中心に批判したのです。この批判点については、あとで質問に答える形で、もう少し詳しく説明します。
β型帝国主義論に対する批判として決定的だったのは、その依拠している世界編成の認識に即して、事実認識としての誤りを指摘した浅井良夫さんの論文です。少なくとも第一次大戦を画期に日本の帝国主義の、世界システム上での位置は「自立した」帝国主義に転換したといわざるをえない、従属という言葉の質的な意味を考えたときに、第一次大戦後の日本を金融的従属と評価するのは無理だというのが浅井説です。これでβ型帝国主義論にかかわる論争は終わった。それが今までのところの流れです。
したがって、この論争は、世界編成の問題が浅井論文で一応の決着がついたと考えられるとすれば、実証的な問題としては、帝国主義イコール独占資本主義という問題提起、あるいは石井さんの帝国主義的な対外政策が先行し、経済的内実があとから形成されるという認識から出発して、戦前の日本資本主義の歴史的な発展をどう段階区分するか、その区分の方法的なツールをどう考えるかに絞り込まれ、そういう意味では独占論争につながっていく必然性をもつものだったと思います。
こちらの論争は、私も当事者ですが、いつ終わったかわからない。文献的にみていくと、『社会科学研究』39巻4号の論文で、性懲りもなく私が書いたのが最後です。きちっと論争が終わったかどうかわからない状態で一段落している。
以上が研究史的な説明ですが、みなさんからみると、何でこんなことを一生懸命に議論しているのだろうと思うのかもしれません。それでは、次回はみなさんから質問を受けましょう。
以上