日本経済史・経営史:研究者のひろば コラム

異端の試み

第27回 番外編1 『日本産銅業史』の先に見えてきたもの

-私的研究史の方法的な回顧-

武田晴人

第27回(1)はじめに/1.研究の出発点としての産銅業史研究
 (2)2.方法的視点としての「コスト分析」/3.独占研究への展開
 (3)4.国民統合にかかわる「調停法体制」論/5.一国資本主義論的アプローチの限界
 (4)6.独占停滞論からの脱却と現代資本主義(国家独占資本主義)論
 (5)7.組織化という捉え方/8.産業から企業へ
 (6)9.「市場か、組織か」から「市場も、組織も」へ
 (7)10.市場の発展とその限界
 (8)質疑


はじめに

ご紹介いただいた東京大学の武田です。何を話すかを少し考えたのですが、個別の細かい実証的な課題を話すのは、お聞きになる人たちにとっては少し辛いことになりそうなので、私自身がどのようなことを考えながら経済史の研究を続けてきたのかをまとめてお話して議論の種にしていただこうと思って、このようなテーマにいたしました。このタイトルは亡くなった橋本寿朗さんが「迷路の先にあったもの」というエッセイを書いているのですが、これを借りています。参考文献をいくつかあげていますが、関心があれば読んで頂ければと思います。

 お話ししたいことの全体をおおざっぱに申しますと、大学院から日本経済史の研究を続けてきてすでに40年経ちまして、その中でどんなことを考えてきて、そこから現代の経済社会をどのように捉えていったらいいと考えているのか、ということです。私は銅山の研究--産銅業史と名付けて研究生活を本格的に始めますが、もとをたどると幕末維新期の民衆運動史、民衆運動の思想的な基盤というようなことに関心があったのです。そうした関心に沿って、その後の時期に対象を設定しようとして足尾鉱毒事件に注目しました。これを調べ始めたら、足尾だけで鉱害問題が発生しているわけではないので、鉱山の歴史をきちっと研究しないと、鉱害問題も理解できないだろうと考えて方針転換しました。そのため、師匠の石井先生には、「君は鉱害のことを忘れたのか」と叱られるのですが、そういう出発点から産銅業の歴史を研究してきました。


1.研究の出発点としての産銅業史研究

――産業の個性に留意しつつ産業発展の段階的な推移を論じる

 この研究をする際に気をつけていたのは、どういう方法的な接近が適切なのかということでした。私たちが研究を始めたときには、すでに高村直助さんの『日本紡績業序説』とか石井寛治さんの『日本蚕糸業史分析』などの研究が出ていました。こうした研究に学びながら,どういうことが自分たちにはできるかを考えていましたが、先行する研究に特徴的なことは、産業のそれぞれの個性に留意するとはいっても、高村さんや石井さんの議論は、素材としての紡績業、蚕糸業ではあっても産業レベルの議論をする気はなくて、その分析を通して日本資本主義を論じようとしていたことです。これに対して、鉱山の歴史から日本資本主義論を展望するのは無理ではないか、距離があって難しいのではないかということに気づかされました。

 私たちの素材は日本資本主義論に直接つながるものではない、だとすればとりあえず迂回的かもしれないけれど、その産業それ自体の分析をつきつめて、何が言えるのかということと、日本資本主義論とかみ合うような論点に留意するということでした。具体的には、①資本家的な経営はいつどのようにして成立したのか、②独占的な産業組織への移行はどのようにして進展したのか、という産業発展の段階的な変化を明らかにすることを通して、日本資本主義の発展につながるような議論をすることです。①については、お二人の研究は産業革命期の研究ですから、いつ頃それぞれ産業が資本家的な経営のもとで展開するようになるのかを重要な論点にしています。そこでは、資本賃労働関係の形成=資本の賃労働支配=熟練労働力の無力化というような問題が、紡績業では機械制大工業を実現するような技術によって、製糸業では等級賃金制によって説明されています。そして成立した資本家的な経営のもとでの産業発展がいつ頃独占段階に達するのかという問いが続いています。これらの論点は継承すべきだろうと考えて、日本産銅業史でも①と②を明らかにできるような資料を集める方向で調べ始めたのです。余り良い資料が残っていませんでしたので、工学系の資料などを使いながら研究を進め、次第に会社史関係の企業資料が見られるようになったこともあって、何とかまとまっていきました。

 方法的にいうと、①については機械制大工業による単純不熟練労働化というのはあらゆる産業で起こることではないと考えて、隅谷三喜男さんの石炭産業分析における運搬過程の重視などを参考にして議論を組み立てています。金属鉱山の採掘の現場--切り羽と呼ばれていますが、切り羽の採掘労働は、昭和の初期まで手掘りの熟練労働が主流でしたから、機械化に拘ると資本家的な経営が成立するのはかなり後になる。作業現場の機械化が資本家的な経営の成立の画期というのは、余りに図式的で不適切だろうと考えて、それではどう理解すれば良いのかが解決すべき課題でした。この時に指針になったのが、隅谷さんの採掘工程が機械化されなくても運搬工程の機械化によって生産工程全体で熟練労働力の抵抗が弱体化できるという捉え方と、石井さんの等級賃金制に基づく労資関係の捉え方です。前者は、運搬の機械化という点を重視している限りで機械化という従来の論点に忠実な面はありますが、言われていることは、運搬が機械化され捲揚機などの運行速度に合わせて採掘量を確保することが採掘労働者の評価基準になると、熟練坑夫といえども抵抗しきれなくなると理解しています。この考え方を援用して金属鉱山では、採掘、運搬、製煉というような工程がありますから、それらの生産性の変化をもたらすような技術革新に注目して、生産工程全体が経営の計画に沿って円滑に動くようになるのはいつなのかを考えていくことにしました。同時に石井さんの研究に学んで、切り羽の熟練労働を経営が如何に管理したのかを考えていけばよいだろうと判断していました。以上のように、生産現場で機械化が達成されるかどうかではなく、労働者の働き方が経営によって支配されるようになること--熟練労働者の抵抗が無力化する--が資本家的経営の成立にとっては本質的な問題であろうという視点で議論が進められることになりました。

 もう一つは独占ですが、それまでの研究では、生産集中を基盤とする市場シェアの高さに注目して産業への支配力が高まり、それよって独占利潤が獲得される、その結果として利潤率の格差が生じることなどを問題にしていました。そして独占利潤の源泉はどこからかというような,ややこしい議論をしていました。この問題に立ち入ると実証研究のレベルでは対応できないので、私たちがやろうとしたのは、カルテルという組織によって人為的に市場の働きを変えていくことで産業が新しいステージに到達したことを示すという方向で独占を論じることでした。そうしたかたちで新しい段階に産業が到達したことを議論すれば良いのではないかと考えるようになっていきます。

 そういう観点から私は、鉱山の研究を進めることになります。その際に留意したのは、研究をするといってもどうしても手に入る資料に引っ張られて,そこから分かること以外は話ができなくなりやすいことです。そういう側面が残ることはやむを得ないのですが、それでもあらかじめ分析すべき要素を考えておいて史料調査を進めることが必要と思って、市場構造、採鉱・製錬技術、労働力、資金調達(資本蓄積)と競争構造などの要点を考えて、そのすべての側面を構造的に分析することを意図し、資料も集めるということです。それらのトータルな分析が『日本産銅業史』としてまとめることになったのです。

第27回(1)はじめに/1.研究の出発点としての産銅業史研究
 (2)2.方法的視点としての「コスト分析」/3.独占研究への展開
 (3)4.国民統合にかかわる「調停法体制」論/5.一国資本主義論的アプローチの限界
 (4)6.独占停滞論からの脱却と現代資本主義(国家独占資本主義)論
 (5)7.組織化という捉え方/8.産業から企業へ
 (6)9.「市場か、組織か」から「市場も、組織も」へ
 (7)10.市場の発展とその限界
 (8)質疑