日本経済史・経営史:研究者のひろば コラム

異端の試み

第27回 番外編1 『日本産銅業史』の先に見えてきたもの

-私的研究史の方法的な回顧-

武田晴人

第27回(1)はじめに/1.研究の出発点としての産銅業史研究
 (2)2.方法的視点としての「コスト分析」/3.独占研究への展開
 (3)4.国民統合にかかわる「調停法体制」論/5.一国資本主義論的アプローチの限界
 (4)6.独占停滞論からの脱却と現代資本主義(国家独占資本主義)論
 (5)7.組織化という捉え方/8.産業から企業へ
 (6)9.「市場か、組織か」から「市場も、組織も」へ
 (7)10.市場の発展とその限界
 (8)質疑

10.市場の発展とその限界

それと関連しますが、私たちが現代において直面しているのは、ここでいう市場の価格シグナルの弱化という問題にどう対処するのかということだと考えています。

 これについては参考文献の5つ目の「資本市場の発展とその意義に関する覚書」という小論文で少し考えをまとめています。ここで何を議論しているのかというかというと、現代経済社会では、経済発展によってかつてセーフティネットの役割を果たしていた非資本主義セクターが消滅しつつある、言い換えれば市場経済的関係が全面化しているわけで、このような緩衝帯の消滅による、市場の自律的調整の範囲の拡大とその限界の深刻化に資本主義経済制度はどのような自己修正能力を持っているかが現代的な問題なのです。

 独占段階への移行における市場の組織化は、「市場機構」への介入的な政策領域--介入的な景気政策とか分配面での公平性の維持のための政策措置など--が増大しているわけですから、その結果、市場が拡大して面としての広がりが大きくなっているとはいっても、そのなかで自律的な調整だけに委ねられているという領域は限定されています。たとえば、「大企業が成長した」という事実は、組織による意思決定によって経済的資源の配分が行われていること、つまり企業の内部に調整機構が部分的に取り込まれていることになります。市場のシグナルが無意味化しているわけではないですが意識的な調整が重要な役割を果たしているのです。また、労働者の権利を認めることを前提に規制されているヒトの市場の調整にも限界が画されています。

 このように市場機構の機能に対する制約が大きくなっていることは、資本主義経済がもっている自己革新の能力が劣化していることを意味します。この点は、橋本寿朗さんの言葉を使えば、資本主義の強靱性が失われつつある局面に到達している可能性がある。

 高成長期には物価上昇への強い警戒のもとで、「成長率循環」が展開したことは、強靱性の喪失という問題の顕在化を抑制していたと思います。そうした経済成長のもとで覆い隠されていた市場機能の脆弱性が顕在化しつつあるのが現代だというわけです。それが先ほどもいった、企業の効率性を担保するための商品市場によるテストの脆弱化です。このモノの市場の脆弱化のもとで、非効率な企業に対する選別の必要性が改めて課題となったのが高成長を経験し成長率がスローダウンした先進国経済の直面した問題だったと理解しています。そこで期待されたのが資本市場です。経済成長に貢献するような効率的な企業だけを残すために資本市場で競争力の低い企業を排除することが、資本主義経済体制の維持には不可欠と考えられるようになったのです。

 商品市場でのテストに代替する手段としての資本市場は、非効率な企業をその活動の成果である収益性によって選別することになります。商品市場でその企業の製品が受け入れられるかどうかが第一義的には企業活動の社会的有用性を明らかにするテストだとすれば、資本市場は、その第一次テストに合格したのかどうかの結果(企業が獲得し得た利益)によって企業をより分けようとしているのです。

 歴史的に見れば資本市場は、小規模な資金も集めて大規模な事業活動に投資することを可能にするような資金調達の手段であり、株式という証券形態での譲渡の容易性が企業の買収などを活発化し、企業の集中など独占段階には広く見出されるような現象も生んできたわけです。投資家にとって、証券の流通市場が機能していれば、証券を乗り換えるなどの方策で自らの投資の流動性を確保することもできるものですが、経済全体が高い成長を遂げ、それなりの高配当と株価の上昇が広く期待されるときには、投資家も企業経営に発言することも少なかったのです。ところが収益力に陰りが生じるとともに、利益の分け前を強く要求する株主が登場し、株主反革命が進んだ結果、株式市場は現在安定性を欠いた状態に立ち至っています。過渡的な時期ということだと理解していますが、資本市場が資金調達と支配集中から商品市場に代わる企業評価のためのコンテストの場になってくると、そこでは投資家たちの美人投票によって市場の動向はそれ自体として期待に依存する不安定さを抱え込みますし、情報の非対称性が払拭できないためのリスクも意識されるようになります。そのようなリスクをヘッジする多様な金融的な手段が発展するとともに、そのヘッジのための金融的な手段が新たに投機的な資金運用法を生み出していきます。そのために私たちは資本市場という暴れ馬をコントロールできていないというのが現実だと思います。これが過渡的で不安定化している基本的な理由です。

 このような理解は、歴史的に見れば、資本市場が企業のガバナンスに企業制度の誕生期から機能していたという平板な理解に対する批判を内包しています。それに賛成するかどうかは別にして、ヒト、モノ、カネの市場の機能がどのように変化していくのかに注目しながら、「経済発展」がどのような構造的な変化を伴いつつ展開してきたのかを論じうるような、新しい段階的な把握の必要性が増していると思います。詳しく説明する時間的な余裕はありませんが、私は今、段階的な変化と、構造的な種差とその相互関係を表現するための「遷移」というとらえ方で書き直せないかを模索中です。そうすることで経済史が歴史的な個性をもった対象、時代の制約を負った対象をきちっと分析するために、その対象が置かれている時代状況を、経済発展段階論的な枠組みで説明できるようにすること、そのために発展段階論も内在的な要因によって変化していくような、言い換えれば外生的なショックだけで説明するのではなく、あくまでも内在的な論理によって発展を描く、そうした視点から何かまともなことをこれからの残された研究人生で考えてきたいと思っているところです。

第27回(1)はじめに/1.研究の出発点としての産銅業史研究
 (2)2.方法的視点としての「コスト分析」/3.独占研究への展開
 (3)4.国民統合にかかわる「調停法体制」論/5.一国資本主義論的アプローチの限界
 (4)6.独占停滞論からの脱却と現代資本主義(国家独占資本主義)論
 (5)7.組織化という捉え方/8.産業から企業へ
 (6)9.「市場か、組織か」から「市場も、組織も」へ
 (7)10.市場の発展とその限界
 (8)質疑