第27回 | (1) | はじめに/1.研究の出発点としての産銅業史研究 |
(2) | 2.方法的視点としての「コスト分析」/3.独占研究への展開 | |
(3) | 4.国民統合にかかわる「調停法体制」論/5.一国資本主義論的アプローチの限界 | |
(4) | 6.独占停滞論からの脱却と現代資本主義(国家独占資本主義)論 | |
(5) | 7.組織化という捉え方/8.産業から企業へ | |
(6) | 9.「市場か、組織か」から「市場も、組織も」へ | |
(7) | 10.市場の発展とその限界 | |
(8) | 質疑 |
質問 橋本さんと武田の違い、橋本さんはエコノミストそのもので武田さんはそうでもないと思っていますが、ご本人としてどうでしょうか。
武田 橋本さんと私の違いは、橋本さんから見れば余計なことまで気にするのが私ということですが、あえて私の特徴点を強調すれば、経済史研究と日本史研究との間に橋を渡すことが重要と考えていたことです。現代の経済史研究は関連研究分野との対話が十分ではないと思うのですが、それがなぜなのか。何か経済問題を語っていれば日本社会全体を語っているかのような錯覚を持てるほどに経済問題が重大化しているからだろうとは思っているのですが、でもそれは望ましくない。政治史にしても、文化史にしても、社会史にしてもそれぞれ固有の研究領域をもっていて、それらとの対話を通して歴史の全体像が描けるという関心を持ち続けています。なかなかうまくできないのですけれど。
こうした全体像への関心は、実は産銅業史でまず挫折しています。産銅業史研究からでは、日本資本主義の全体像に迫ることはできない。そのために、一端抽象度の高い市場とか企業とかを考察の次元を迂回して発展段階などを議論しています。いずれにしても一人の研究者ができるわけではないのですが、どこまで関心の視野を広げていればよいのかが分からないので、いまだ迷っています、最近の経済史研究者は、経済学の研究についてはリスペクトして読む人はたくさんいるようですが、歴史の研究に対してはそうでもないし、歴史プロパーの人たちも経済史の研究をあまり読んでいないような気がします。私たちの時代は日本史研究でも運動史研究が盛り上がっていましたから、話がつながりやすかったという幸運もあったのですが、今はそうではない。一人でできないとすれば、共同で研究を前進できるような手掛かりを残すように論点をまとめていきたい、という思いが「調停法体制」というような議論に出ているのだと思います。
戦争の必然性が経済史の論理では説明できないといったのは、政治史・軍事史がきちっと分析しなければ戦争それ自体を説明することはできない、だから経済的な利害に落とし込んで思考を停止しないで欲しいという気持ちでいっているのですが、それは伝わらなかったようです。これに関連して、資本市場の問題が経済史としては焦点だといったのは、植民地投資が有利な条件を作り出すような出来事――たとえば政治的な介入や政府の利益保証とか、軍事的優位とかなども含めて――があれば資本輸出が行われうることを含意していますから、「必然的だ」と説明できないけれど、「説明するための論理的な可能性は残されている」ということのはずなのです。それも純粋な経済的な問題ではないということが強調されているのです。誰もそう思ってはいないようです。
どのような時代でも、時代の特徴を描くことは難しいことですが、複眼的な視点での共同作業が必要だということは強調しておきたいことです。
質問 報告ではふれていませんが、参考文献のなかで在来産業論についてかなり厳しい評価をしているように思いますが、どのような意図があるのでしょうか。
武田 一番問題があると感じているは、たとえば谷本さんが在来的経済発展論を提唱する時に、それまでの近代的な産業の発展を論じている人たちに対して何を言いたいのかが分からないことなのです。その点をもっと積極的に発言してほしいし、それを促すようにこちらか疑問をぶつけているのですが、今のところは反応がないので、少しいらだっているところです。仮に小経営が重要な存在であるということだとすると、それは日本に固有のことでもないので、そのことも含めて、在来産業への注目や小経営のあり方の分析が資本主義社会論としてどのような点で重要性を持つかを教えてほしいし、それが少しでも分かれば、自分の考えの至らないところも発見できそうな気がしているのです。その意味で厳しいと感じられるとすれば、それは期待しているからということになります。
質問 「近代の産業と資本」で『日本産銅業史』を素朴な資料至上主義と自己評価しているのは、言い過ぎではないでしょうか。
武田 産銅業史の評価は確かに自虐的です。方法を明示していなかったということにそもそもの問題があります。読めば分かるだろうと思っていたのですが、橋本さんが書評を書いてくださったのを読んでも、それにふれていませんから、橋本さんでも気がつかなかったようです。その意味では自業自得だと思っていて、実はこういう方法で書かれた本ですと、後から言っても仕方がないから、そういう自虐的な評価になっています。方法的にセールポイントがないとすれば、一生懸命調べて資料をたくさん集めて、ともかく書いてある本ですとしか言いようがないなと感じていました。それがこの自己評価に繋がっていますが、あえて言えば、実証的な研究水準の高まりは、同世代の研究が着実に進展しているなかで実感できてはいたのですが、それだけでは経済史研究はモノグラフの集積にしかならない、それではダメではないかという焦燥感が書かせているものと言うこともできます。そして、その発言は、今でも自分の研究のふがいなさを思い知らせる言葉になっている。つまり、その時に感じていた問題をいまだに克服できていない、情けないという感覚なのです。